て、田舎《いなか》めいた景色を賞し合った。実際|窓外《そうがい》の眺めは大阪を今離れたばかりの自分達には一つの変化であった。ことに汽車が海岸近くを走るときは、松の緑と海の藍《あい》とで、煙に疲れた眼に爽《さわや》かな青色を射返《いかえ》した。木蔭《こかげ》から出たり隠れたりする屋根瓦の積み方も東京地方のものには珍らしかった。
「あれは妙だね。御寺かと思うと、そうでもないし。二郎、やっぱり百姓家なのかね」と母がわざわざ指をさして、比較的大きな屋根を自分に示した。
自分は汽車の中で兄と隣り合せに坐った。兄は何か考え込んでいた。自分は心の内でまた例のが始まったのじゃないかと思った。少し話でもして機嫌《きげん》を直そうか、それとも黙って知らん顔をしていようかと躊躇《ちゅうちょ》した。兄は何か癪《しゃく》に障《さわ》った時でも、むずかしい高尚な問題を考えている時でも同じくこんな様子をするから、自分にはいっこう見分がつかなかった。
自分はしまいにとうとう思い切ってこっちから何か話を切り出そうとした。と云うのは、向側《むこうがわ》に腰をかけている母が、嫂と応対の相間《あいま》相間に、兄の顔を偸《ぬす》むように一二度見たからである。
「兄さん、面白い話がありますがね」と自分は兄の方を見た。
「何だ」と兄が云った。兄の調子は自分の予期した通り無愛想《ぶあいそう》であった。しかしそれは覚悟の前であった。
「ついこの間三沢から聞いたばかりの話ですがね。……」
自分は例の精神病の娘さんがいったん嫁《とつ》いだあと不縁になって、三沢の宅《うち》へ引き取られた時、三沢の出る後《あと》を慕《した》って、早く帰って来てちょうだいと、いつでも云い習わした話をしようと思ってちょっとそこで句を切った。すると兄は急に気乗りのしたような顔をして、「その話ならおれも聞いて知っている。三沢がその女の死んだとき、冷たい額へ接吻《せっぷん》したという話だろう」と云った。
自分は喫驚《びっくり》した。
「そんな事があるんですか。三沢は接吻の事については一口も云いませんでしたがね。皆《みん》ないる前でですか、三沢が接吻したって云うのは」
「それは知らない。皆《みんな》の前でやったのか。またはほかに人のいない時にやったのか」
「だって三沢がたった一人でその娘さんの死骸《しがい》の傍《そば》にいるはずがないと思いま
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