で北海の珍味を献上しますと云ったら、父は「何だそんな朱塗《しゅぬ》りの文鎮《ぶんちん》見たいなもの。要《い》らないから早くそっちへ持って行け」と怒った昔を思い出した。
 岡田はいつまでも飲んで帰らなかった。始めは興《きょう》を添えた彼の座談もだんだん皆《みん》なに飽きられて来た。嫂《あによめ》は団扇《うちわ》を顔へ当てて欠《あくび》を隠した。自分はとうとう彼を外へ連出さなければならなかった。自分は散歩にかこつけて五六町彼といっしょに歩いた。そうして懐《ふところ》から例の金を出して彼に返した。金を受取った時の彼は、酔っているにもかかわらず驚ろくべくたしかなものであった。「今でなくってもいいのに。しかしお兼が喜びますよ。ありがとう」と云って、洋服の内隠袋《うちがくし》へ収めた。
 通りは静であった。自分はわれ知らず空を仰いだ。空には星の光が存外《ぞんがい》濁っていた。自分は心の内に明日《あす》の天気を気遣《きづか》った。すると岡田が藪《やぶ》から棒に「一郎さんは実際むずかしやでしたね」と云い出した。そうして昔《むか》し兄と自分と将棋《しょうぎ》を指した時、自分が何か一口《ひとくち》云ったのを癪《しゃく》に、いきなり将棋の駒を自分の額へぶつけた騒ぎを、新しく自分の記憶から呼び覚《さま》した。
「あの時分からわがままだったからね、どうも。しかしこの頃はだいぶ機嫌《きげん》が好いようじゃありませんか」と彼がまた云った。自分は煮え切らない生《なま》返事をしておいた。
「もっとも奥さんができてから、もうよっぽどになりますからね。しかし奥さんの方でもずいぶん気骨《きぼね》が折れるでしょう。あれじゃ」
 自分はそれでも何の答もしなかった。ある四角《よつかど》へ来て彼と別れるときただ「お兼さんによろしく」と云ったまままた元の路へ引き返した。

        十

 翌日《よくじつ》朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯《ひるめし》を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪《べっぴん》がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯をやって御覧なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注《つ》いだりする女をよく心づけて見た。しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった。
 母と嫂《あによめ》は物珍らしそうに窓の外を眺《なが》め
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