にかくちょっと伺候《しこう》して来ますから。失礼」
岡田はこう云い捨てたなり、とうとう自分の用事を聞かずに二階へ上《あが》って行ってしまった。自分もしばらくして風呂から出た。
九
岡田はその夜《よ》だいぶ酒を呑んだ。彼は是非都合して和歌の浦までいっしょに行くつもりでいたが、あいにく同僚が病気で欠勤しているので、予期の通りにならないのがはなはだ残念だと云ってしきりに母や兄に詫《わ》びていた。
「じゃ今夜が御別れだから、少し御過《おす》ごしなさい」と母が勧めた。
あいにく自分の家族は酒に親しみの薄いものばかりで、誰も彼の相手にはなれなかった。それで皆《みん》な御免蒙《ごめんこうむ》って岡田より先へ食事を済ました。岡田はそれがこっちも勝手だといった風に、独《ひと》り膳《ぜん》を控えて盃《さかずき》を甜《な》め続けた。
彼は性来《しょうらい》元気な男であった。その上酒を呑むとますます陽気になる好い癖を持っていた。そうして相手が聞こうが聞くまいが、頓着《とんじゃく》なしに好きな事を喋舌《しゃべ》って、時々一人高笑いをした。
彼は大阪の富が過去二十年間にどのくらい殖《ふ》えて、これから十年立つとまたその富が今の何十倍になるというような統計を挙《あ》げておおいに満足らしく見えた。
「大阪の富より君自身の富はどうだい」と兄が皮肉を云ったとき、岡田は禿《は》げかかった頭へ手を載《の》せて笑い出した。
「しかし僕の今日《こんにち》あるも――というと、偉過《えらす》ぎるが、まあどうかこうかやって行けるのも、全く叔父《おじ》さんと叔母さんのお蔭《かげ》です。僕はいくらこうして酒を呑《の》んで太平楽《たいへいらく》を並べていたって、それだけはけっして忘れやしません」
岡田はこんな事を云って、傍《そば》にいる母と遠くにいる父に感謝の意を表した。彼は酔うと同じ言葉を何遍も繰返す癖のある男だったが、ことにこの感謝の意は少しずつ違った形式で、幾度《いくたび》か彼の口から洩《も》れた。しまいに彼は灘万《なだまん》のまな鰹《がつお》とか何とかいうものを、是非父に喰わせたいと云い募《つの》った。
自分は彼がもと書生であった頃、ある正月の宵《よい》どこかで振舞酒《ふるまいざけ》を浴びて帰って来て、父の前へ長さ三寸ばかりの赤い蟹《かに》の足を置きながら平伏して、謹《つつし》ん
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