も痩せているのを何かの刑罰のように忌《い》み恐れた。それでもちっとも肥れなかった。
自分は母の言葉を聞きながら、この苦しい愛嬌《あいきょう》を、慰藉《いしゃ》の一つとしてわが子の前に捧げなければならない彼女の心事を気の毒に思った。兄に比べると遥《はる》かに頑丈《がんじょう》な体躯《からだ》を起しながら、「じゃ御先へ」と母に挨拶《あいさつ》して下へ降りた。風呂場の隣の小さい座敷をちょいと覗《のぞ》くと、嫂は今|髷《まげ》ができたところで、合せ鏡をして鬢《びん》だの髱《たぼ》だのを撫《な》でていた。
「もう済んだんですか」
「ええ。どこへいらっしゃるの」
「御湯へ這入ろうと思って。お先へ失礼してもよござんすか」
「さあどうぞ」
自分は湯に入《い》りながら、嫂が今日に限ってなんでまた丸髷《まるまげ》なんて仰山《ぎょうさん》な頭に結《ゆ》うのだろうと思った。大きな声を出して、「姉さん、姉さん」と湯壺《ゆつぼ》の中から呼んで見た。「なによ」という返事が廊下の出口で聞こえた。
「御苦労さま、この暑いのに」と自分が云った。
「なぜ」
「なぜって、兄さんの御好《おこの》みなんですか、そのでこでこ頭は」
「知らないわ」
嫂《あによめ》の廊下伝いに梯子段《はしごだん》を上《のぼ》る草履《ぞうり》の音がはっきり聞こえた。
廊下の前は中庭で八つ手の株が見えた。自分はその暗い庭を前に眺《なが》めて、番頭に背中を流して貰《もら》っていた。すると入口の方から縁側《えんがわ》を沿って、また活溌《かっぱつ》な足音が聞こえた。
そうして詰襟《つめえり》の白い洋服を着た岡田が自分の前を通った。自分は思わず、「おい君、君」と呼んだ。
「や、今お湯、暗いんでちっとも気がつかなかった」と岡田は一足《ひとあし》後戻りして風呂を覗《のぞ》き込みながら挨拶《あいさつ》をした。
「あなたに話がある」と自分は突然云った。
「話が? 何です」
「まあ、お入《はい》んなさい」
岡田は冗談《じょうだん》じゃないと云う顔をした。
「お兼は来ませんか」
自分が「いいえ」と答えると、今度は「皆さんは」と聞いた。自分がまた「みんないますよ」というと、不思議そうに「じゃ今日はどこへも行かなかったんですか」と聞いた。
「行ってもう帰って来たんです」
「実は僕も今会社から帰りがけですがね。どうも暑いじゃあありませんか。――と
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