うちに汽車が着いた。岡田は彼ら三人のために特別に宿を取っておいたとかいって、直《ただち》に俥《くるま》を南へ走らした。自分は空《くう》に乗った俥の上で、彼のよく人を驚かせるのに驚いた。そう云えば彼が突然上京してお兼さんを奪うように伴《つ》れて行ったのも自分を驚かした目覚《めざ》ましい手柄《てがら》の一つに相違なかった。
二
母の宿はさほど大きくはなかったけれども、自分の泊っている所よりはよほど上品な構《かまえ》であった。室《へや》には扇風器だの、唐机《とうづくえ》だの、特別にその唐机の傍《そば》に備えつけた電灯などがあった。兄はすぐそこにある電報紙へ大阪着の旨《むね》を書いて下女に渡していた。岡田はいつの間にか用意して来た三四枚の絵端書《えはがき》を袂《たもと》の中から出して、これは叔父さん、これはお重《しげ》さん、これはお貞《さだ》さんと一々|名宛《なあて》を書いて、「さあ一口《ひとくち》ずつ皆《みん》などうぞ」と方々へ配っていた。
自分はお貞さんの絵端書へ「おめでとう」と書いた。すると母がその後《あと》へ「病気を大事になさい」と書いたので吃驚《びっくり》した。
「お貞さんは病気なんですか」
「実はあの事があるので、ちょうど好い折だから、今度|伴《つ》れて来《き》ようと思って仕度までさせたところが、あいにくお腹《なか》が悪くなってね。残念な事をしましたよ」
「でも大した事じゃないのよ。もうお粥《かゆ》がそろそろ食べられるんだから」と嫂《あによめ》が傍《そば》から説明した。その嫂は父に出す絵端書を持ったまま何か考えていた。「叔父さんは風流人だから歌が好いでしょう」と岡田に勧められて、「歌なんぞできるもんですか」と断った。岡田はまたお重へ宛《あ》てたのに、「あなたの口の悪いところを聞けないのが残念だ」と細《こま》かく謹《つつし》んで書いたので、兄から「将棋の駒がまだ祟《たた》ってると見えるね」と笑われていた。
絵端書が済んで、しばらく世間話をした後で、岡田とお兼さんはまた来ると云って、母や兄が止《と》めるのも聞かずに帰って行った。
「お兼さんは本当に奥さんらしくなったね」
「宅《うち》へ仕立物を持って来た時分を考えると、まるで見違えるようだよ」
母が兄とお兼さんを評し合った言葉の裏には、己《おの》れがそれだけ年を取ったという淡い哀愁《あいし
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