《とお》り路《みち》に当るとかでその前側を幾坪か買い上げられると聞いたとき、自分は母に「じゃその金でこの夏みんなを連《つれ》て旅行なさい」と勧めて、「また二郎さんのお株が始まった」と笑われた事がある。母はかねてから、もし機会があったら京大阪を見たいと云っていたが、あるいはその金が手に入ったところへ、岡田からの勧誘があったため、こう大袈裟《おおげさ》な計画になったのではなかろうか。それにしても岡田がまた何でそんな勧誘をしたものだろう。
「何という大した考えもないんでございましょう。ただ昔《むか》しお世話になった御礼に御案内でもする気なんでしょう。それにあの事もございますから」
 お兼さんの「あの事」というのは例の結婚事件である。自分はいくらお貞《さだ》さんが母のお気に入りだって、そのために彼女がわざわざ大阪|三界《さんがい》まで出て来るはずがないと思った。
 自分はその時すでに懐《ふところ》が危《あや》しくなっていた。その上|後《あと》から三沢のために岡田に若干の金額を借りた。ほかの意味は別として、母と兄夫婦の来るのはこの不足填補《ふそくてんぽ》の方便として自分には好都合であった。岡田もそれを知って快よくこちらの要《い》るだけすぐ用立ててくれたに違いなかろうと思った。
 自分は岡田夫婦といっしょに停車場《ステーション》に行った。三人で汽車を待ち合わしている間に岡田は、「どうです。二郎さん喫驚《びっくり》したでしょう」といった。自分はこれと類似の言葉を、彼から何遍も聞いているので、何とも答えなかった。お兼さんは岡田に向って、「あなたこの間から独《ひとり》で御得意なのね。二郎さんだって聞き飽《あ》きていらっしゃるわ。そんな事」と云いながら自分を見て「ねえあなた」と詫《あや》まるようにつけ加えた。自分はお兼さんの愛嬌《あいきょう》のうちに、どことなく黒人《くろうと》らしい媚《こび》を認めて、急に返事の調子を狂わせた。お兼さんは素知《そし》らぬ風をして岡田に話しかけた。――
「奥さまもだいぶ御目にかからないから、ずいぶんお変りになったでしょうね」
「この前会った時はやっぱり元の叔母さんさ」
 岡田は自分の母の事を叔母さんと云い、お兼さんは奥様というのが、自分には変に聞こえた。
「始終《しじゅう》傍《そば》にいると、変るんだか変らないんだか分りませんよ」と自分は答えて笑っている
前へ 次へ
全260ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング