いじ》めぬいたらしい。けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。その時の事が頭に祟《たた》っているから、離婚になった後《あと》でも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。――けれども僕はそう信じたくない。強《し》いてもそうでないと信じていたい」
「それほど君はその娘さんが気に入ってたのか」と自分はまた三沢に聞いた。
「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入《い》って」
 自分は黙然《もくねん》とした。
「君から退院を勧められた晩、僕はその娘さんの三回忌を勘定《かんじょう》して見て、単にそのためだけでも帰りたくなった」と三沢は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙っていた。
「ああ肝心《かんじん》の事を忘れた」とその時三沢が叫んだ。自分は思わず「何だ」と聞き返した。
「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」
 三沢の口元には解ったろうと云う一種の微笑が見えた。二人はそれからじきに梅田の停車場《ステーション》へ俥《くるま》を急がした。場内は急行を待つ乗客ですでにいっぱいになっていた。二人は橋を向《むこう》へ渡って上《のぼ》り列車を待ち合わせた。列車は十分と立たないうちに地を動かして来た。
「また会おう」
 自分は「あの女」のために、また「その娘さん」のために三沢の手を固く握った。彼の姿は列車の音と共にたちまち暗中《あんちゅう》に消えた。


     兄


        一

 自分は三沢を送った翌日《あくるひ》また母と兄夫婦とを迎えるため同じ停車場《ステーション》に出かけなければならなかった。
 自分から見るとほとんど想像さえつかなかったこの出来事を、始めから工夫して、とうとうそれを物にするまで漕《こ》ぎつけたものは例の岡田であった。彼は平生からよくこんな技巧を弄《ろう》してその成効《せいこう》に誇るのが好《すき》であった。自分をわざわざ電話口へ呼び出して、そのうちきっと自分を驚かして見せると断ったのは彼である。それからほどなく、お兼さんが宿屋へ尋ねて来て、その訳を話した時には、自分も実際驚かされた。
「どうして来るんです」と自分は聞いた。
 自分が東京を立つ前に、母の持っていた、ある場末《ばすえ》の地面が、新たに電車の布設される通
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