自分の境遇の苦しさ悲しさを一部の小説と見立てて、それから自分でこの小説の中を縦横《じゅうおう》に飛び廻って、大いに苦しがったりまた大いに悲しがったりして、そうして同時に自分の惨状を局外から自分と観察して、どうも詩的だなどと感心するほどなませた考えは少しもなかった。自分が自分の駆落に不相当なありがたみをつけたと云うのは、自分の不経験からして、さほど大袈裟《おおげさ》に考えないでも済む事を、さも仰山《ぎょうさん》に買い被《かぶ》って、独《ひと》りでどぎまぎしていた事実を指《さ》すのである。しかるにこのどぎまぎが赤毛布に逢《あ》い、小僧に逢って、両人《ふたり》の平然たる態度を見ると共に、いつの間にやら薄らいだのは、やっぱり経験の賜《たまもの》である。白状すると当時の赤毛布でも当時の小僧でも、当時の自分よりよっぽど偉かったようだ。
こう手もなく赤毛布がかかる。小僧がかかる。そう云う自分も、たわいもなく攻め落された事実を綜合《そうごう》して考えて見ると、なるほど長蔵さんの商売も、満更《まんざら》待ち草臥《くたびれ》の骨折損になる訳でもなかった。坑夫になれますよ、はあ、なれますか、じゃなりましょ
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