ると、行く先は山だろうが、河だろうが、あまり苦にはならない。自分は幸か不幸か、中以上の家庭に生れて、昨日《きのう》の午後九時までは申し分のない坊ちゃんとして生活していた。煩悶《はんもん》も坊ちゃんとしての煩悶であったのは勿論《もちろん》だが、煩悶の極《きょく》試みたこの駆落《かけおち》も、やっぱり坊ちゃんとしての駆落であった。さればこそ、この駆落に対して、不相当にもったいぶった意味をつけて、ありがたがらないまでも、一生の大事件のように考えていた。生死《しょうし》の分れ路のように考えていた。と云うものは坊ちゃんの眼で見渡した世の中には、駆落をしたものは一人もない。――たまにあれば新聞にあるばかりである。ところが新聞では駆落が平面になって、一枚の紙に浮いて出るだけで、云わばあぶり出しの駆落だから、食べたって身にはならない。あたかも別世界から、電話がかかったようなもので、はあ、はあ、と聞いてる分の事である。だから本当の意味で切実な駆落をするのは自分だけだと云うありがたみがつけ加わってくる。もっとも自分はただ煩悶して、ただ駆落をしたまでで、詩とか美文とか云うものを、あんまり読んだ事がないから、
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