。どんなに魂がうろついてる時でも呼ばれて見ると性根《しょうね》があるのは不思議なものだ。自分は何の気もなく振り向いた。応ずるためと云う意識さえ持たなかったのは事実である。しかし振り向いて見て始めて気がついた。自分はさっきの茶店からまだ二十間とは離れていない。その茶店の前の往来へ、例の袢天《はんてん》とどてら[#「どてら」に傍点]の合《あい》の子《こ》が出て、脂《やに》だらけの歯をあらわに曝《さら》しながらしきりに自分を呼んでいる。
昨夕《ゆうべ》東京を立ってから、まだ人間に口を利《き》いた事がない。人から言葉を掛けられようなどとは夢にも予期していなかった。言葉を掛けられる資格などはまるで無いものと自信し切っていた。ところへ突然呼び懸《か》けられたのだから――粗末な歯並《はなら》びだが向き出しに笑顔を見せてしきりに手招きをしているのだから、ぼんやり振り返った時の心持が、自然と判然《はっきり》すると共に、自分の足はいつの間にか、その男の方へ動き出した。
実を云うとこの男の顔も服装《なり》も動作もあんまり気に入っちゃいない。ことにさっき白い眼でじろじろやられた時なぞは、何となく嫌悪《けん
前へ
次へ
全334ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング