お》の念が胸の裡《うち》に萌《きざ》し掛けたくらいである。それがものの二十間とも歩かないうちに以前の感情はどこかへ消えてしまって、打って変った一種の温味《あたたかみ》を帯びた心持で後帰《あとがえ》りをしたのはなぜだか分らない。自分は暗い所へ行かなければならないと思っていた。だから茶店の方へ逆戻りをし始めると自分の目的とは反対の見当《けんとう》に取って返す事になる。暗い所から一歩《ひとあし》立ち退《の》いた意味になる。ところがこの立退《たちのき》が何となく嬉《うれ》しかった。その後《のち》いろいろ経験をして見たが、こんな矛盾は到《いた》る所に転《ころ》がっている。けっして自分ばかりじゃあるまいと思う。近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分ったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘《うそ》をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがってるんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏《まとま》ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説
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