れからさきの逸話に属するが、歩き出したてから、あんまりありがたい音声ではなかった。その上顔が人並にできていなかった。この男に比べると角張《かくば》った顎《あご》の、厚唇《あつくちびる》の長蔵さんなどは威風堂々たるものである。のみならず茨城の田舎を突っ走ったのみで、いまだかつて東京の地を踏んだことがない。そうして、赤い毛布《けっと》が妙に臭い。それにもかかわらず自分はこの山里で、銅山行きの味方を得たような心持ちがして嬉《うれ》しかった。自分はどうせ捨てる身だけれども、一人で捨てるより道伴《みちづれ》があって欲《ほし》い。一人で零落《おちぶ》れるのは二人で零落れるのよりも淋しいもんだ。そう明らさまに申しては失礼に当るが、自分はこの男について何一つ好いてるところはなかったけれども、ただいっしょに零落れてくれると云う点だけがありがたいのでそれがため大いに愉快を感じた。それで歩き出すや否や、少し話もし掛けて見たくらいに、近しい仲となってしまった。これから推《お》して考えると、川で死ぬ時は、きっと船頭の一人や二人を引き擦《ず》り込みたくなるに相違ない。もし死んでから地獄へでも行くような事があったな
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