ら、人のいない地獄よりも、必ず鬼のいる地獄を択《えら》ぶだろう。
 そう云う訳で、たちまち赤毛布が好きになって、約一二町も歩いて来たら、また空腹を覚え出した。よく空腹を覚えるようだが、これは前段の続きでけっして新しい空腹ではない。順序を云うと、第一に精神が稀薄になって、もっとも刻下感《こっかかん》に乏しい時に汽車を下りたんで、次に真直《まっすぐ》な往来を真直に突き当りの山まで見下《みおろ》したもんだからようやく正気づいたのは前《まえ》申した通りである。それが機縁になって、今度は食気《くいけ》がついて、それから人格を認められていない事を認識して、はなはだつまらなくなって、つまらなくなったと思ったら坑夫の同類が出来て、少しく頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》したと云うしだいになる。だに因《よ》ってまた空腹に立ち戻ったと説明したら善く呑《の》み込めるだろう。さて空腹にはなったが、最後の一膳飯屋《いちぜんめしや》はもう通り越している。宿《しゅく》はすでに尽きかかった。行く手は暗い山道である。とうてい願は叶《かな》いそうもない。それに赤毛布は今食ったばかりの腹だから、勇ましくどんどん歩く。どうも
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