き出すどころの騒ぎではなかった。――長蔵さんは明かに自分の人格を認めていなかった。
と云うのは、彼れはこの酒、めし、御肴《おんさかな》の裏《うち》から飛び出した若い男を捕《つら》まえて、第二世の自分であるごとく、全く同じ調子と、同じ態度と、同じ言語と、もっと立ち入って云えば、同じ熱心の程度をもって、同じく坑夫になれと勧誘している。それを自分はなぜだか少々|怪《け》しからんように考えた。その意味を今から説明して見ると、ざっとこんな訳なんだろう。――
坑夫は長蔵さんの云うごとくすこぶる結構な家業《かぎょう》だとは、常識を質に入れた当時の自分にももっともと思いようがなかった。まず牛から馬、馬から坑夫という位の順だから、坑夫になるのは不名誉だと心得ていた。自慢にゃならないと覚《さと》っていた。だから坑夫の候補者が自分ばかりと思《おもい》のほか突然居酒屋の入口から赤毛布になって、あらわれようとも別段神経を悩ますほどの大事件じゃないくらいは分りきってる。しかしこの赤毛布の取扱方が全然自分と同様であると、同様であると云う点に不平があるよりも、自分は全然赤毛布と一般な人間であると云う気になっちまう
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