方では何だか赤いものが動いている。長蔵さんの顔色を窺《うかが》うと、何でもこの赤いものを見詰めているらしい。この赤いものは無論人間である。が長蔵さんがなぜ立ち留ってこの赤い人間を覗《のぞ》き込むのか、とんと自分には分らなかった。人間には違ないが、ただ薄暗く赤いばかりで、顔つきなどは無論判然しやしない。がと思って、自分も不審かたがた立ち留っていると、やがて障子の奥から赤毛布《あかげっと》が飛び出した。いくら山里でも五月の空に毛布は無用だろうと云う人があるかも知れないが、実際この男は赤毛布で身を堅めていた。その代り下には手織の単衣《ひとえもの》一枚だけしきゃ着ていないんだから、つまり|〆《しめ》て見ると自分と大した相違はない事になる。もっとも単衣一枚で凌《しの》いでると云う事は、あとからの発見で、障子の影から飛び出した時にはただ赤いばかりであった。
 すると長蔵さんは、いきなり、この赤い男の側《そば》へつかつかやって行って、
「お前さん、働く気はないかね」
と云った。自分が長蔵さんに捕《つか》まった時に聞かされた、第一の質問はやはり「働く気はないかね」であったから、自分はおやまた働かせる気
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