自分は今に長蔵さんが恰好《かっこう》な所を見つけて、晩食《ばんめし》をしたために自分を連れ込む事と自信して、気を永く辛抱しながら、長い町を北へ北へと下って行った。
 自分は空腹を自白したが、倒れるほどひもじくは無かった。胃の中にはまだ先刻《さっき》の饅頭《まんじゅう》が多少残ってるようにも感ぜられた。だから歩けば歩かれる。ただ汽車を下りるや否や滅《め》り込《こ》みそうな精神が、真直《まっすぐ》な往来の真中に抛《ほう》り出されて、おやと眼を覚したら、山里の空気がひやりと、夕日の間から皮膚を冒《おか》して来たんで、心機一転の結果としてここに何か食って見たくなったんである。したがって食わなければ食わないでも済む。長蔵さん何か食わしてくれませんかと云うほど苦しくもなかった。しかし何だか口が淋《さび》しいと見えて、しきりに縄暖簾《なわのれん》や、お|煮〆《にしめ》や、御中食所《おちゅうじきどころ》が気にかかる。相手の長蔵さんがまた申し合せたように右左と覗《のぞ》き込むので、こっちはますます食意地《くいいじ》が張ってくる。自分はこの長い町を通りながら、自分らに適当と思う程度の一膳《いちぜん》めし屋
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