っては、どうも詩的でないが、致し方がない。実際自分は空腹になった。家《うち》を出てから、ただ歩くだけで、人間の食うものを食わないから、たちまち空腹になっちまう。どんなに気分がわるくっても、煩悶《はんもん》があっても、魂が逃げ出しそうでも、腹だけは十分減るものである。いや、そう云うよりも、魂を落つけるためには飯を供えなくっちゃいけないと云い換えるのが適当かも知れない。品《ひん》の悪い話だが、自分は長蔵さんと並んで往来の真中を歩きながら、左右に眼をくばって、両側の飲食店を覗《のぞ》き込むようにして長い町を下《くだ》って行った。ところがこの町には飲食店がだいぶんある。旅屋《はたごや》とか料理屋とか云う上等なものは駄目としても、自分と長蔵さんが這入ってしかるべきやたいち[#「やたいち」に傍点]流《りゅう》のがあすこにもここにも見える。しかし長蔵さんは毫《ごう》も支度《したく》をしそうにない。最前の我多馬車《がたばしゃ》の時のように「御前さん夕食《ゆうめし》を食うかね」とも聞いてくれない。その癖自分と同じように、きょろきょろ両側に眼を配って何だか発見したいような気色《けしき》がありありと見える。
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