引き込んでいくような気がする結果とも云われるし。日がだんだん傾《かたぶ》いて陰の方は蒼い山の上皮《うわかわ》と、蒼い空の下層《したがわ》とが、双方で本分を忘れて、好い加減に他《ひと》の領分を犯《おか》し合ってるんで、眺める自分の眼にも、山と空の区劃《くかく》が判然しないものだから、山から空へ眼が移る時、つい山を離れたと云う意識を忘却して、やはり山の続きとして空を見るからだとも云われる。そうしてその空は大変広い。そうして際限なく北へ延びている。そうして自分と長蔵さんは北へ行くんである。
 自分は昨夕《ゆうべ》東京を出て、千住《せんじゅ》の大橋まで来て、袷《あわせ》の尻を端折《はしょ》ったなり、松原へかかっても、茶店へ腰を掛けても、汽車へ乗っても、空脛《からすね》のままで押し通して来た。それでも暑いくらいであった。ところがこの町へ這入《はい》ってから何だか空脛では寒い気持がする。寒いと云うよりも淋しいんだろう。長蔵さんと黙って足だけを動かしていると、まるで秋の中を通り抜けてるようである。そこで自分はまた空腹になった。たびたび空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい事で、かつこの際空腹にな
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