る。自分の立っている左右の二階屋などは――宿屋のように覚えているが――見上げるほどの高さであるのに、宿外れの軒を透《すか》して見ると、指の股《また》に這入《はい》ると思われるくらい低い。その途中に暖簾《のれん》が風に動いていたり、腰障子《こししょうじ》に大きな蛤《はまぐり》がかいてあったりして、多少の変化は無論あるけれども、軒並《のきなみ》だけを遠くまで追っ掛けて行くと、一里が半秒《はんセコンド》で眼の中に飛び込んで来る。それほど明瞭《めいりょう》である。
前に云った通り自分の魂は二日酔《ふつかえい》の体《てい》たらくで、どこまでもとろんとしていた。ところへ停車場《ステーション》を出るや否や断りなしにこの明瞭な――盲目《めくら》にさえ明瞭なこの景色《けしき》にばったりぶつかったのである。魂の方では驚かなくっちゃならない。また実際驚いた。驚いたには違いないが、今まであやふやに不精不精《ふしょうぶしょう》に徘徊《はいかい》していた惰性を一変して屹《きっ》となるには、多少の時間がかかる。自分の前《さき》に云った一種妙な心持ちと云うのは、魂が寝返りを打たないさき、景色がいかにも明瞭であるなと
前へ
次へ
全334ページ中69ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング