けて魂が逃げ出しそうなところを、ようやく呼びとめて、多少人間らしい了簡《りょうけん》になって、宿の中へ顔を出したばかりであるから、魂が吸《ひ》く息につれて、やっと胎内に舞い戻っただけで、まだふわふわしている。少しも落ちついていない。だからこの世にいても、この汽車から降りても、この停車場《ステーション》から出ても、またこの宿の真中に立っても、云わば魂がいやいやながら、義理に働いてくれたようなもので、けっして本気の沙汰《さた》で、自分の仕事として引き受けた専門の職責とは心得られなかったくらい、鈍《にぶ》い意識の所有者であった。そこで、ふらついている、気の遠くなっている、すべてに興味を失った、かなつぼ眼《まなこ》を開いて見ると、今までは汽車の箱に詰め込まれて、上下四方とも四角に仕切られていた限界が、はっと云う間《ま》に、一本筋の往還を沿うて、十丁ばかり飛んで行った。しかもその突当りに滴《したた》るほどの山が、自分の眼を遮《さえぎ》りながらも、邪魔にならぬ距離を有《たも》って、どろんとしたわが眸《ひとみ》を翠《みどり》の裡《うち》に吸寄せている。――そこで何んとなく今云ったような心持になっちま
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