自分が腐爛目の難を避けて、向う側に席を移すと、長蔵さんは一目ちょっと自分と腐爛目を見たなりで、やはり元の所へ腰を掛けたまま動かなかった。長蔵さんの神経が自分よりよほど剛健なのには少からず驚嘆した。のみならず、平気な顔で腐爛目と話し出したに至って、少しく愛想《あいそ》が尽きた。
「また山行きかね」
「ああまた一人連れて行くんだ」
「あれかい」
と腐爛目は自分の方を見た。長蔵さんはこの時何か返事をしかけたんだろうがふと自分と顔を見合せたものだから、そのまま厚い唇を閉じて横を向いてしまった。その顔について廻って、腐爛目は、
「まただいぶん儲《もう》かるね」
と云った。自分はこの言葉を聞くや否やたちまち窓の外へ顔を出した。そうして窓から唾液《つばき》をした。するとその唾液が汽車の風で自分の顔へ飛んで来た。何だか不愉快だった。前の腰掛で知らない男が二人弁じている。
「泥棒が這入《はい》るとするぜ」
「こそこそがかい」
「なに強盗がよ。それでもって、抜身《ぬきみ》か何かで威嚇《おど》した時によ」
「うん、それで」
「それで、主人《あるじ》が、泥棒だからってんで贋銭《にせがね》をやって帰したとするん
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