生涯《しょうがい》中に二度とありゃしない。二十《はたち》以下の無分別から出た無茶だから、その筋道が入り乱れて要領を得んのだと評してはなおいけない。経験の当時こそ入り乱れて滅多《めった》やたらに盲動するが、その盲動に立ち至るまでの経過は、落ち着いた今日《こんにち》の頭脳の批判を待たなければとても分らないものだ。この鉱山|行《ゆき》だって、昔の夢の今日だから、このくらい人に解るように書く事が出来る。色気がなくなったから、あらいざらい書き立てる勇気があると云うばかりじゃない。その時の自分を今の眼の前に引擦《ひきず》り出して、根掘り葉掘り研究する余裕がなければ、たといこれほどにだってとうてい書けるものじゃない。俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下《こっか》の事情と云うものは、転瞬《てんしゅん》の客気《かっき》に駆られて、とんでもない誤謬《ごびゅう》を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。とうてい、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。
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