《ぜいたくもの》である。長蔵さんは蟇口を受け取って、ちょっと眺《なが》めていたが、
「ふふん、安くないね」
と云ったなり中味も改めずに腹掛の隠しへ入れちまった。中味を改めないところはよかったが、
「じゃ、私が切符を買って来て上げるから、ちゃんとここに待っていなくっちゃ、いけない。はぐれると、坑夫になれないんだからね」
と念を押して、ベンチを離れて切符口の方へすたすた行ってしまった。見ていると人込《ひとごみ》の中へ這入《はい》ったなり振り返りもしないで切符を買う番のくるのを待っている。さっき松原の掛茶屋を出てから、今先方《いまさきがた》までの長蔵さんは始終《しじゅう》自分の傍《そば》に食っついていて、たまに離れると便所からでも顔を出して呼ぶくらいであったのに、蟇口を受け取って、切符を買う時はまるで自分を忘れているように見受けられた。あんまり人が多くって、こっちへ眼をつける暇がなかったんだろう。これに反して自分は一生懸命に長蔵さんの後姿を見守って、札を買う順番が一人一人に廻って来るたんびに長蔵さんがだんだん切符口へ近づいて行くのを、遠くから妙な神経を起して眺《なが》めていた。蟇口は立派だが
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