中を開けられたら銅貨が出るばかりだ。開けて見て、何だこれっぱかりしか持っていないのかと長蔵さんが驚くに違ない。どうも気の毒である。いくら足し前をするんだろうなどと入らざる事を苦《く》に病《や》んでいると、やがて長蔵さんは平生《へいぜい》の顔つきで帰って来た。
「さあ、これが御前さんの分だ」
と云いながら赤い切符を一枚くれたぎりいくら不足だとも何とも云わない。きまりが悪かったから、自分もただ
「ありがとう」
と受取ったぎり賃銭の事は口へ出さなかった。蟇口の事もそれなりにして置いた。長蔵さんの方でも蟇口の事はそれっきり云わなかった。したがって蟇口はついに長蔵さんにやった事になる。
 それから、とうとう二人して汽車へ乗った。汽車の中では別にこれと云う出来事もなかった。ただ自分の隣りに腫物《できもの》だらけの、腐爛目《ただれめ》の、痘痕《あばた》のある男が乗ったので、急に心持が悪くなって向う側へ席を移した。どうも当時の状態を今からよく考えて見るとよっぽどおかしい。生家《うち》を逃亡《かけお》ちて、坑夫にまで、なり下《さが》る決心なんだから、大抵の事に辟易《へきえき》しそうもないもんだがやっぱり
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