ぼう》さえ荷《かつ》いだのがある。そうかと思うと光沢《つや》のある前掛を締めて、中折帽を妙に凹《へこ》ました江戸ッ子流の商人《あきゅうど》もある。その他の何やらかやらでベンチの四方が足音と人声でざわついて来た時に、切符口の戸がかたりと開《あ》いた。待ち兼ねた連中は急いで立ち上がって、みんな鉄網《かなあみ》の前へ集ってくる。この時長蔵さんの態度は落ちつき払ったものであった。例の太刀《たち》のごとくそっくりかえった「朝日」を厚い唇《くちびる》の間に啣《くわ》えながら、あの角張《かどば》った顔を三《さん》が二《に》ほど自分の方へ向けて、
「御前さん、汽車賃を持っていなさるかい」
と聞いた。また自分の未熟なところを発表するようだが、実を云うと汽車賃の事は今が今まで自分の考えには毫《ごう》も上《のぼ》らなかったのである。汽車に乗るんだなと思いながら、いくら金を払うものか、また金を払う必要があるものか、とんと思い至らなかったのは愚《ぐ》の至《いたり》である。愚はどこまでも承認するがこの質問に出逢《であ》うまでは無賃《ただ》で乗れるかのごとき心持で平気でいたのは事実である。よく分らないけれども、何で
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