ついて一言《いちごん》も聞き糺《ただ》さなかったのは、変と思いながらも、内々嬉しかった。本当を云うと、当時の自分はまだ嘘《うそ》をつく事をよく練習していなかったし、ごまかすと云う事は大変な悪事のように考えていたんだから、聞かれたら定めし困ったろうと思う。
 そこで長蔵さんに尾《つ》いて、横町を曲って行くと、一二丁行ったか行かないうちに町並が急に疎《まばら》になって、所々は田圃《たんぼ》の片割れが細く透いて見える。表はあんなに繁昌しても、繁昌は横幅だけであるなと気がついたら、また急に横町を曲らせられて、また賑《にぎや》かな所へ出された。その突当りが停車場《ステーション》であった。汽車に乗らなくっては坑夫になる手続きが済まないんだと云う事をこの時ようやく知った。実は鉱山の出張所でもこの町にあって、まずそこへ連れて行かれて、そこからまた役人が山へでも護送してくれるんだろうと思っていた。
 そこで停車場へ這入《はい》る五六間手間になってから、
「長蔵さん、汽車に乗るんですか」
と後《うしろ》から、呼び掛けながら聞いて見た。自分がこの男を長蔵さんと云ったのはこの時が始めてである。長蔵さんはちょっ
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