ら仕方がない。またこう書けばこそ下らなくなるが、その当時のぼんやりした意気込《いきごみ》を、ぼんやりした意気込のままに叙したなら、これでも小説の主人公になる資格は十分あるんだろうと考える。
それでなくっても実際その当時の、二人の少女の有様やら、日《ひ》ごとに変る局面の転換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やらかやらを、そっくりそのまま書き立てたら、だいぶん面白い続きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあやめにして、せっかくの坑夫事件だけを話す事にする。
とにかくこう云う訳で自分はいよいよとなって出奔《しゅっぽん》したんだから、固《もと》より生きながら葬《ほうぶ》られる覚悟でもあり、また自《みずか》ら葬ってしまう了簡《りょうけん》でもあったが、さすがに親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢《すてばち》になっても長蔵さんには話したくなかった。長蔵さんばかりじゃない、すべての人間に話したくなかった。すべての人間は愚か、自分にさえできる事なら語りたくないほど情《なさけ》ない心持でひょろひょろしていた。だから長蔵さんが人を周旋する男にも似合わず、自分の身元に
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