んと呼んだ事がある。しかし長蔵とはどう書くのか今もって知らない。ここに書いたのはもちろん当字《あてじ》である。始めて家庭を飛出した鼻をいきなり引っ張って、思いも寄らない見当《けんとう》に向けた、云わば自分の生活状態に一転化を与えた人の名前を口で覚えていながら、筆に書けないのは異《い》な事だ。
 さてこの長蔵さんと、茶店のかみさんがきっと坑夫になれると受合うから、自分もなれるんだろうと思って、
「じゃ、どうか何分願います」
と頼んだ。しかしこの茶店に腰を掛けているものが、どうして、どこへ行って、どんな手続で坑夫になるんだかその辺《へん》はさっぱり分らなかった。
 何しろ先方でこのくらい勧めるものだから、何分願いますと云ったら、長蔵さんがどうかするに違ないと思って、あとは聞かずに黙っていた。すると長蔵さんは、勢いよくどてら[#「どてら」に傍点]の尻を床几《しょうぎ》から立てて、
「それじゃこれから、すぐに出掛けよう。御前さん、支度《したく》はいいかい。忘れもののないようによく気をつけて」
と云った。自分はうちを出る時、着のみ着のままで出たのだから、身体《からだ》よりほかに忘れ物のあるはずが
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