ない。そこで、
「何にも無いです」
と立ち上がったが、神さんと顔を見合せて気がついた。肝心《かんじん》の揚饅頭《あげまんじゅう》の代を忘れている。長蔵さんは平気な面《つら》をして、もう半分ほど葭簀《よしず》の外に出て往来を眺《なが》めていた。自分は懐中から三十二銭入りの蟇口《がまぐち》を出して饅頭三皿の代を払って、ついでだから茶代として五銭やった。饅頭の代はとうとう忘れちまって思い出せない。ただその時かみさんが、
「坑夫になって、うんと溜めて帰りにまた御寄《おより》」
と云ったのを記憶している。その後《のち》坑夫はやめたが、ついにこの茶店へは寄る機会がなかった。それから長蔵さんに尾《つ》いて、例の飽き飽きした松原へ出て、一本筋を足の甲まで埃《ほこり》を上げて、やって来ると、さっきの長たらしいのに引き易《か》えて今度は存外早く片づいちまった。いつの間《ま》にやら松がなくなったら、板橋街道のような希知《けち》な宿《しゅく》の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車《がたばしゃ》が通る。一足先へ出た長蔵さんが、振り返って、
「御前さん馬車へ乗るかい」
と聞くから、
「乗っても好いです
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