た上に獣慾の脂《あぶら》が浮いているところばかり眼に着いて、どれも、これも差別がないように思われた。それが三度四度と重なるにつけて、四人五人と人相の区別ができるに連れて、この坑夫だけが一際《ひときわ》目立って見えるようになった。年はまだ三十にはなるまい。体格は倔強《くっきょう》である。眉毛《まみえ》と鼻の根と落ち合う所が、一段奥へ引っ込んで、始終《しじゅう》鼻眼鏡で圧《お》しつけてるように見える。そこに疳癪《かんしゃく》が拘泥《こうでい》していそうだが、これがために獰猛の度はかえって減ずると云っても好いような特徴であった。――この坑夫が始めてこの時口を利《き》いた。――
「なぜこんな所へ来た。来たって仕方がないぜ。儲《もう》かる所じゃない。ここにいる奴あ、みんな食詰《くいつめ》ものばかりだ。早く帰るが好かろう。帰って新聞配達でもするがいい。おれも元はこれで学校へも通《かよ》ったもんだが、放蕩《ほうとう》の結果とうとう、シキ[#「シキ」に傍点]の飯を食うようになっちまった。おれのようになったが最後もう駄目だ。帰ろうたって、帰れなくなる。だから今のうちに東京へ帰って新聞配達をしろ。書生はと
前へ 次へ
全334ページ中175ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング