り返って、
「こっちへおいでなさい」
と、もどかしそうに云うから、度胸を据《す》えて、獰猛の方へ近づいて行った。ようやく囲炉裏の傍《はた》まで来ると、婆さんが、今度は、
「まあここへ御坐《おすわ》んなさい」
と差《さ》しずをしたが、ただ好加減《いいかげん》な所へ坐れと云うだけで、別に設けの席も何もないんだから、自分は黒い塊《かたま》りを避《さ》けて、たった一人畳の上へ坐った。この間獰猛な眼は、始終《しじゅう》自分に喰っついている。遠慮も何もありゃしない。そうして誰も口を利《き》くものがない。取附端《とりつきは》を見出《みいだ》すまでは、団体の中へ交り込む訳にも行かず、ぽつねんと独《ひと》りぼッちで離れているのは、獰猛の目標《めじるし》となるばかりだし、大いに困った。婆さんは、自分を紹介する段じゃない、器械的に「ここへ坐れ」と云ったなり、ちょっ切り結びの尻を振り立てて階子段《はしごだん》を降りて行ってしまった。広い寄席《よせ》の真中にたった一人取り残されて、楽屋の出方《でかた》一同から、冷かされてるようなものだ、手持無沙汰《てもちぶさた》は無論である。ことさら今の自分に取っては心細い。の
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