り》が落ちて来ても、親の死目に逢《あ》うか、逢わないかと云う大事な場合でも、いつでも、こんな顔をしているに違ない。小僧は空を見ている。まだ物騒だ。
ところへ長蔵さんがあらわれた。しかし往来へは出て来ない。敷居の上へ足を乗せて、こっちを向いて立った股倉《またぐら》から、ランプの灯だけが細長く出て来る。ランプの位置がいつの間《ま》にか低くなったと見える。長蔵さんの顔は無論よく分らない。
「御前さん、これから山越をするのは大変だから、今夜はここへ泊《とま》って行こう。みんな這入るがいい」
自分はこの言葉を聞くと等しく、今までの神妙《しんびょう》が急に破裂して、身体《からだ》がぐたりとなった。この牛小屋で一夜を明《あか》す事が、それほどの慰藉《いしゃ》を自分に与えようとは、牛小屋を見た今が今まで、とんと気がつかなかった。やはり神妙の結果泊る所が見つかっても、泊る気が起らなかったんだろう。こうなると人間ほど御《ぎょ》しやすいものはない。無理でも何でもはいはい畏《かしこ》まって聞いて、そうして少しも不平を起さないのみか大《おおい》に嬉《うれ》しがる。当時を思い出すたびに、自分はもっとも順良なま
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