たもっとも励精な人間であったなと云う自信が伴《ともな》ってくる。兵隊はああでなくっちゃいけないなどと考える事さえある。同時に、もし人間が物の用を無視し得るならば、かねて物の用をも忘れ得るものだと云う事も悟った。――こう書いて見たが、読み直すと何だかむずかしくって解らない。実を云うと、もっとずっとやさしいんだが、短く詰めるものだからこんなにむずかしくなっちまった。例《たと》えば酒を飲む権利はないと自信して、酒の徳を、あれどもなきがごとくに見做《みな》す事さえできれば、徳利が前に並んでも、酒は飲むものだとさえ気がつかずにいるくらいなところである。御互が泥棒にならずに済むのも、つまりを云えば幼少の時から、人工的にこの種の境界《きょうがい》に馴《な》らされているからの事だろう。が一方から云うと、こんな境界は人性の一部分を麻痺《まひ》さした結果としてでき上るもんだから、図に乗ってきゅきゅ押して行くと、人間がみんな馬鹿になっちまう。まあ泥棒さえしなければ好いとして、その他の精神器械は残らず相応に働く事ができるようにしてやるのが何よりの功徳《くどく》だと愚考する。自分が当時の自分のままで、のべつに今
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