。もっともこれが悟り始めの悟りじまいだと笑い話にもなるが、一度悟り出したら、その悟りがだいぶ長い事続いて、ついに鉱山の中で絶高頂に達してしまった。神妙の極に達すると、出るべき涙さえ遠慮して出ないようになる。涙がこぼれるほどだと譬《たとえ》に云うが、涙が出るくらいなら安心なものだ。涙が出るうちは笑う事も出来るにきまってる。
不思議な事にこれほど神妙にあてられたものが、今はけろりとして、一切《いっさい》神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われている。その時御世話になった長蔵さんから見たら、定めし増長した野郎だと思う事だろう。がまた今の朋友《ほうゆう》から評すると、昔は気の毒だったと云ってくれるかも知れない。増長したにしても気の毒だったにしても構わない。昔は神妙で今は横着なのが天然自然の状態である。人間はこうできてるんだから致し方がない。夏になっても冬の心を忘れずに、ぶるぶる悸《ふる》えていろったって出来ない相談である。病気で熱の出た時、牛肉を食わなかったから、もう生涯《しょうがい》ロースの鍋《なべ》へ箸《はし》を着けちゃならんぞと云う命令はどんな御大名だって無理だ。咽喉元《の
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