せざるを得ない。世間は学校の採点を信ずるごとく、評家を信ずるの極《きょく》ついにその落第を当然と認定するに至るだろう。
ここにおいて評家の責任が起る。評家はまず世間と作家とに向って文学はいかなる者ぞと云う解決を与えねばならん。文学上の述作を批判するにあたって(詩は詩、劇は劇、小説は小説、すべてに共有なる点は共有なる点として)批判すべき条項を明かに備えねばならぬ。あたかも中学及び高等学校の規定が何と何と、これこれとを修め得ざるものは学生にあらずと宣告するがごとくせねばならん。この条項を備えたる評家はこの条項中のあるものについて百より〇に至るまでの点数を作家に附与せねばならん。この条項のうちわが趣味の欠乏して自己に答案を検査するの資格なしと思惟《しい》するときは作家と世間とに遠慮して点数を付与する事を差《さ》し控《ひか》えねばならん。評家は自己の得意なる趣味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、その縄張《なわばり》以外の諸点においては知らぬ、わからぬと云い切るか、または何事をも云わぬが礼であり、徳義である。
これらの条項を机の上に貼《は》り附《つ》けるのは、学校の教師が、学校の課目全体を承知の上で、自己の受持に当るようなもので、自他の関係を明かにして、文学の全体を一目に見渡すと同時に、自己の立脚地を知るの便宜《べんぎ》になる。今の評家はこの便宜を認めていない。認めても作っていない。ただ手当り次第にやる。述作に対すると思いついた事をいい加減に述べる。だから評し尽したのだか、まだ残っているのか当人にも判然しない。西洋も日本も同じ事である。
これらの条項を遺憾《いかん》なく揃《そろ》えるためには過去の文学を材料とせねばならぬ。過去の批評を一括《いっかつ》してその変遷を知らねばならぬ。したがって上下数千年に渉《わた》って抽象的の工夫《くふう》を費やさねばならぬ。右から見ている人と左から眺めている人との関係を同じ平面にあつめて比較せねばならぬ。昔《むか》しの人の述作した精神と、今の人の支配を受くる潮流とを地図のように指《ゆびさ》し示さねばならぬ。要するに一人の事業ではない。一日の事業でもない。
この条項を備えたる人にして始めて、この条項中に差等をつける事を考えてもよいと思う。人力も人を載せる。電車も人も載せる。両者を知ったものが始めて両者の利害長短を比較するの権
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