る余地がないから略す)もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合《そうごう》と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際《てぎわ》がある。読者はそれを見ればいい。日本の芝居の仕組は支離滅裂である。馬鹿馬鹿しい。結構とか性格とか云う点からあれを見たならば抱腹するのが多いだろう。しかし幕に変化がある。出来事が走馬灯《そうまとう》のごとく人を驚かして続々出る。ここだけを面白がって、そのほかを忘れておればやはり幾分の興味がある。一九は御覧の通りの作者である。一九を読んで崇高の感がないと云うのは非難しようもない。崇高の感がないから排斥すべしと云うのは、文学と崇高の感と内容において全部一致した暁でなければ云えぬ事である。一九に点を与えるときには滑稽《こっけい》が下卑《げひ》であるから五十とか、諧謔《かいぎゃく》が自然だから九十とかきめなければならぬ。メリメのカルメンはカルメンと云う女性を描《えが》いて躍然たらしめている。あれを読んで人生問題の根元に触れていないから駄作だと云うのは数学の先生が英語の答案を見て方程式にあてはまらないから落第だと云うようなものである。デフォーは一種の写実家である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイノック・アーデンのように詩趣がないと云う。ここまではなるほどと降参せねばならぬ。しかしそれだからロビンソンクルーソーは作物にならないと云うのは歌麿の風俗画には美人があるが、ギド・レニのマグダレンは女になっておらんと主張するようなものである。――例を挙《あ》げれば際限がないからやめる。
作家が評家に呈出する答案はかくのごとく多種多面である。評家は中学の教師のごとく部門をわけて採点するかまたは一人で物理、数学、地理、歴史の智識を兼ねなければならぬ。今の評家は後者である。いやしくも評家であって、専門の分岐《ぶんき》せぬ今の世に立つからには、多様の作家が呈出する答案を検閲するときにあたって、いろいろに立場を易《か》えて、作家の精神を汲《く》まねばならぬ。融通のきかぬ一本調子の趣味に固執《こしゅう》して、その趣味以外の作物を一気に抹殺《まっさつ》せんとするのは、英語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべての答案を英語の尺度で採点してしまうと一般である。その尺度に合せざる作家はことごとく落第の悲運に際会
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