る事になる。前例を布衍《ふえん》して云うと地理、数学、物理、歴史、語学の試験をただ一人で担任すると同様な結果になる。
純文学と云えばはなはだ単簡《たんかん》である。しかしその内容を論ずれば千差万別である。実は文学の標榜《ひょうぼう》するところは何と何でその表現し得る題目はいかなる範囲に跨《また》がって、その人を動かす点は幾ヵ条あって、これらが未来の開化に触るるときどこまで押拡《おしひろ》げ得るものであるか、いまだ何人も組織的に研究したものがおらんのである。またすこぶるできにくいのである。
こう云うては分らんかも知らぬ。例を挙《あ》げて二三を語ればすぐに合点《がてん》が行く。古い話であるが昔《むか》しの人は劇の三統一と云う事を必要条件のように説いた。ところが沙翁《さおう》の劇はこれを破っている。しかも立派にできている。してみると統一が劇の必要であると云う趣味から沙翁の作物を見れば失望するにきまっている。あるいは駄作になるかも知れぬ。しかしこれがために統一論の価値がなくなったのではない。その価値がモジフハイされたのであると思う。だからこの条件を充《み》たした劇を見ればやはりそれなりに面白い。その代り沙翁の劇を賞翫《しょうがん》する態度でかかってはならぬ。読者の方で融通を利《き》かして、その作物と同じ平面に立つだけの余裕がなくてはならぬ。ほかに一例をあげる。また沙翁を引合に出すが、あの男のかいたものはすごぶる乱暴な所がある。劇の一段《シーン》がたった五六行で、始まるかと思うとすぐしまわねばならぬと思うのに、作者は大胆にも平気でいくらでも、こんな連鎖を設けている。無論マクベスの発端のように行数は短かくても、興味の上において全篇を貫く重みのあるものは論外であるが、平々凡々たるしかも十行内外の一段を設けるのは、話しの続きをあらわすためやむをえず挿入《そうにゅう》したのだと見え透《す》くように思われる。換言すれば彼の戯曲のあるものは齣幕の組織において明かに比例を失している。だから比例だけを眼中に置いてマーチャント・オブ・ヴェニスを読むものは必ず失敗の作だと云うだろう。マーチャント・オブ・ヴェニスはこの点から読むべきものでないと云う事がわかる。また沙翁を引き合に出す。オセロは四大悲劇の一である。しかし読んでけっして好い感じの起るものではない。不愉快である。(今はその理由を説明す
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