ない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくって頑《がん》として結びつけられているにもかかわらず、掃除の実《じつ》に至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたき[#「はたき」に傍点]と箒が発明せられざる昔のごとく、毫《ごう》も挙《あが》っておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。
 吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ膳《ぜん》に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の香《におい》が鮑貝《あわびがい》の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合う
前へ 次へ
全750ページ中568ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング