ニの令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天《ぎょうてん》して屋敷のまわりを三度|馳《か》け回ったくらいである。いかに白昼といえども、主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が怖《こわ》くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と独《ひと》り言《ごと》を云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作《しょさ》だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己《おの》れの醜悪な事が怖《こわ》くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱《げだつ》は出来ない。主人もここまで来たらついでに「おお怖《こわ》い」とでも云いそうなものであるがなかなか云わない。「なるほどきたない顔だ」と云ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと頬《ほ》っぺたを膨《ふく》らました。そうしてふくれた頬っぺたを平手《ひらて》で二三度|叩《たた》いて見る。何のまじないだか分らない。この時吾輩は何だかこの顔に似たものがあるらしいと
前へ
次へ
全750ページ中511ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング