い募《つの》ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は起らないとも限りません。好んで身体を使って疲労を求める。吾々が毎日やる散歩という贅沢も要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取扱方の一部分なのであります。がこの道楽気の増長した時に幸に行って来いという命令が下ればちょうど好いが、まあたいていはそう旨《うま》くは行かない。云いつかった時は多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫《くふう》をしなければならない。となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる理窟《りくつ》です。つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわがままな了簡《りょうけん》、と申しましょうかまたはそうそう身を粉《こ》にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談《じょうだん》じゃねえという発憤の結果が怪物のように辣腕《らつわん》な器械力と豹変《ひょうへん》したのだと見れば差支《さしつかえ》ないでしょう。
この怪物の力で距離が縮《ちぢ》まる、時間が縮まる、手数が省《はぶ》ける、すべて義務的の労力が最少低額に切りつめられた上にまた切りつめられてどこまで押して行くか分らないうちに、彼の反対の活力消耗と名づけておいた道楽|根性《こんじょう》の方もまた自由わがままのできる限りを尽して、これまた瞬時の絶間なく天然自然と発達しつつとめどもなく前進するのである。この道楽根性の発展も道徳家に言わせると怪《け》しからんとか言いましょう。がそれは徳義上の問題で事実上の問題にはなりません。事実の大局から云えば活力を吾好むところに消費するというこの工夫精神は二六時中休みっこなく働いて、休みっこなく発展しています。元々社会があればこそ義務的の行動を余儀なくされる人間も放り出しておけばどこまでも自我本位に立脚するのは当然だから自分の好《す》いた刺戟《しげき》に精神なり身体なりを消費しようとするのは致し方もない仕儀である。もっとも好いた刺戟に反応して自由に活力を消耗すると云ったって何も悪い事をするとは限らない。道
前へ
次へ
全21ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング