楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。好きな真似《まね》をするとは開化の許す限りのあらゆる方面に亘《わた》っての話であります。自分が画がかきたいと思えばできるだけ画ばかりかこうとする。本が読みたければ差支ない以上本ばかり読もうとする。あるいは学問が好《すき》だと云って、親の心も知らないで、書斎へ入って青くなっている子息《むすこ》がある。傍《はた》から見れば何の事か分らない。親父が無理算段の学資を工面《くめん》して卒業の上は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計《くらし》の方なんかまるで無頓着《むとんじゃく》で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机に靠《もた》れて苦《にが》り切っているのもある。親は生計のための修業と考えているのに子供は道楽のための学問とのみ合点《がてん》している。こういうような訳で道楽の活力はいかなる道徳学者も杜絶《とぜつ》する訳にいかない。現にその発現は世の中にどんな形になって、どんなに現れているかと云うことは、この競争|劇甚《げきじん》の世に道楽なんどとてんでその存在の権利を承認しないほど家業に励精《れいせい》な人でも少し注意されれば肯定しない訳に行かなくなるでしょう。私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様《ごんげんさま》だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石山の巓《いただき》へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子《こうし》の檻《おり》の中に入って山の上へ上げられた一人であります。があれは生活上別段必要のある場所にある訳でもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物数奇《ものずき》である。ただ上ったり下ったりするだけである。疑もなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計向《くらしむき》とは関係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれてこういう贅沢《ぜいたく》なものの数が殖《ふ》えてくるのは誰でも認識しない訳に行かないでしょう。のみならずこの贅沢が日に増し細かくなる。大きなものの中に輪が幾つもできて漏斗《じょうご》みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気のつかなかった方面へだんだん発展して範囲が
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