かえん》が棒となって、熱を追うて突き上る風諸共、夜の世界に流矢の疾《と》きを射る。飴《あめ》を煮て四斗|樽《だる》大の喞筒《ポンプ》の口から大空に注ぐとも形容される。沸《た》ぎる火の闇に詮《せん》なく消ゆるあとより又沸ぎる火が立ち騰《のぼ》る。深き夜を焦せとばかり煮え返る※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の声は、地にわめく人の叫びを小癪《こしゃく》なりとて空一面に鳴り渡る。鳴る中に※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]は砕けて砕けたる粉が舞い上り舞い下《さが》りつつ海の方へと広がる。濁る浪の憤る色は、怒る響と共に薄黒く認めらるる位なれば櫓の周囲は、煤《すす》を透《とお》す日に照さるるよりも明かである。一枚の火の、丸形に櫓を裏《つつ》んで飽き足らず、横に這うて※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]《ひめがき》の胸先にかかる。炎は尺を計って左へ左へと延びる。たまたま一陣の風吹いて、逆に舌先を払えば、左へ行くべき鋒《ほこさき》を転じて上に向う。旋《めぐ》る風なれば後ろより不意を襲う事もある。順に撫でて※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]を馳《か》け抜ける時は上に向えるが又向き直りて行き過ぎし風を追う。左へ左へと溶けたる舌は見る間に長くなり、又広くなる。果は此所《ここ》にも一枚の火が出来る、かしこにも一枚の火が出来る。火に包まれたる※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]の上を黒き影が行きつ戻りつする。たまには暗き上から明るき中へ消えて入ったぎり再び出て来ぬのもある。
 焦《や》け爛《ただ》れたる高櫓の、機熟してか、吹く風に逆《さから》いてしばらくは※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]と共に傾くと見えしが、奈落までも落ち入らでやはと、三分二を岩に残して、倒《さか》しまに崩れかかる。取り巻く※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]の一度にパッと天地を燬《や》く時、※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]の上に火の如き髪を振り乱して佇《たたず》む女がある。「クララ!」とウィリアムが叫ぶ途端に女の影は消える。焼け出された二頭の馬が鞍付のまま宙を飛んで来る。
 疾く走る尻尾《しりお》を攫《つか》みて根元よりスパと抜ける体なり、先なる馬がウィリアムの前にて礑《はた》ととまる。とまる前足に力余りて堅き爪の半ばは、斜めに土に喰い入る。盾に当る鼻づらの、二寸を隔てて夜叉の面に火の息を吹く。「四つ足も呪われたか」とウィリアムは我とはなしに鬣《たてがみ》を握りてひらりと高き脊に跨《また》がる。足乗せぬ鐙《あぶみ》は手持無沙汰に太腹を打って宙に躍る。この時何物か「南の国へ行け」と鉄|被《き》る剛《かた》き手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた」とウィリアムは馬と共に空《くう》を行く。
 ウィリアムの馬を追うにあらず、馬のウィリアムに追わるるにあらず、呪いの走るなり。風を切り、夜を裂き、大地に疳《かん》走《ばし》る音を刻んで、呪いの尽くる所まで走るなり。野を走り尽せば丘に走り、丘を走り下れば谷に走り入る。夜は明けたのか日は高いのか、暮れかかるのか、雨か、霰《あられ》か、野分《のわき》か、木枯か――知らぬ。呪いは真一文字に走る事を知るのみじゃ。前に当るものは親でも許さぬ、石蹴る蹄《ひづめ》には火花が鳴る。行手を遮《さえぎ》るものは主《しゅ》でも斃《たお》せ、闇吹き散らす鼻嵐を見よ。物凄き音の、物凄き人と馬の影を包んで、あっと見る睫《まつげ》の合わぬ間に過ぎ去るばかりじゃ。人か馬か形か影かと惑うな、只呪いその物の吼《たけ》り狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え。
 ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ。乗り斃した馬の鞍に腰を卸して、右手《めて》に額を抑えて何事をか考え出《いだ》さんと力《つと》めている。死したる人の蘇《よみがえ》る時に、昔しの我と今の我との、あるは別人の如く、あるは同人の如く、繋《つな》ぐ鎖りは情けなく切れて、然《しか》も何等かの関係あるべしと思い惑う様である。半時なりとも死せる人の頭脳には、喜怒哀楽の影は宿るまい。空《むな》しき心のふと吾に帰りて在りし昔を想い起せば、油然《ゆうぜん》として雲の湧《わ》くが如くにその折々は簇《むら》がり来《きた》るであろう。簇がり来るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻《めぐ》るであろう。ウィリアムが吾に醒《さ》めた時の心が水の如く涼しかっただけ、今思い起すかれこれも送迎に遑《いとま》なきまで、糸と乱れてその頭を悩ましている。出陣、帆柱の旗、戦……と順を立てて排列して見る。皆事実としか思われぬ。「その次に」と頭の奧を探るとぺらぺらと黄色な※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]が見える。「火事だ!」とウィリアムは思わず叫ぶ。火事は構わぬが今心の眼に思い浮べた※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]の中にはクララの髪の毛が漾《ただよ》っている。何故あの火の中へ飛び込んで同じ所で死ななかったのかとウィリアムは舌打ちをする。「盾の仕業《しわざ》だ」と口の内でつぶやく。見ると盾は馬の頭を三尺ばかり右へ隔てて表を空にむけて横わっている。
「これが恋の果か、呪《のろ》いが醒めても恋は醒めぬ」とウィリアムは又額を抑えて、己れを煩悶《はんもん》の海に沈める。海の底に足がついて、世に疎《うと》きまで思い入るとき、何処《いずく》よりか、微《かす》かなる糸を馬の尾で摩《こす》る様な響が聞える。睡るウィリアムは眼を開いてあたりを見廻す。ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林である。林とは云え、枝を交えて高き日を遮ぎる一|抱《かか》え二抱えの大木はない。木は一坪に一本位の割でその大《おおき》さも径六七寸位のもののみであろう。不思議にもそれが皆同じ樹である。枝が幹の根を去る六尺位の所から上を向いて、しなやかな線を描いて生えている。その枝が聚《あつ》まって、中が膨《ふく》れ、上が尖《と》がって欄干の擬宝珠《ぎぼうしゅ》か、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉を以《もっ》て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂[#「筆の穂」に傍点]は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林の態《さま》は葡萄の房の累々と連なる趣きがある。下より仰げば少しずつは空も青く見らるる。只眼を放つ遙《はる》か向《むこう》の果に、樹の幹が互《たがい》に近づきつ、遠《とおざ》かりつ黒くならぶ間に、澄み渡る秋の空が鏡の如く光るは心行く眺めである。時々鏡の面を羅《うすもの》が過ぎ行|様《さま》まで横から見える。地面は一面の苔《こけ》で秋に入《い》って稍《やや》黄食《きば》んだと思われる所もあり、又は薄茶に枯れかかった辺もあるが、人の踏んだ痕《あと》がないから、黄は黄なり、薄茶は薄茶のまま、苔と云う昔しの姿を存している。ここかしこに歯朶《しだ》の茂りが平かな面を破って幽情を添えるばかりだ。鳥も鳴かぬ風も渡らぬ。寂然《せきぜん》として太古の昔を至る所に描き出しているが、樹の高からぬのと秋の日の射透すので、さほど静かな割合に怖しい感じが少ない。その秋の日は極《きわ》めて明《あきら》かな日である。真上から林を照らす光線が、かの丸い黄な無数の葉を一度に洗って、林の中は存外明るい。葉の向きは固《もと》より一様でないから、日を射返す具合も悉く違う。同じ黄ではあるが透明、半透明、濃き、薄き、様々の趣向をそれぞれに凝《こら》している。それが乱れ、雑《まじ》り、重なって苔の上を照らすから、林の中に居るものは琥珀《こはく》の屏《びょう》を繞《めぐ》らして間接に太陽の光りを浴びる心地である。ウィリアムは醒めて苦しく、夢に落付くという容子《ようす》に見える。糸の音《ね》が再び落ちつきかけた耳朶《じだ》に響く。今度は怪しき音の方へ眼をむける。幹をすかして空の見える反対の方角を見ると――西か東か無論わからぬ――爰《ここ》ばかりは木が重なり合《おう》て一畝《ひとせ》程は際立《きわだ》つ薄暗さを地に印する中に池がある。池は大きくはない、出来|損《そこな》いの瓜《うり》の様に狭き幅を木陰に横たえている。これも太古の池で中に湛《たた》えるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにも天《あめ》が下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き寄せられて、所々にかたまっている。群を離れて散っているのはもとより数え切れぬ。糸の音は三たび響く。滑《なめら》かなる坂を、護謨《ゴム》の輪が緩々《ゆるゆる》練り上る如く、低くきより自然に高き調子に移りてはたとやむ。
 ウィリアムの腰は鞍《くら》を離れた。池の方に眼を向けたまま音ある方《かた》へ徐《おもむ》ろに歩を移す。ぼろぼろと崩るる苔の皮の、厚く柔らかなれば、あるく時も、坐れる時の如く林の中は森《しん》として静かである。足音に我が動くを知るものの、音なければ動く事を忘るるか、ウィリアムは歩むとは思わず只ふらふらと池の汀《みぎわ》まで進み寄る。池幅の少しく逼《せま》りたるに、臥《ふ》す牛を欺く程の岩が向側から半ば岸に沿うて蹲踞《うずくま》れば、ウィリアムと岩との間は僅《わず》か一丈余ならんと思われる。その岩の上に一人の女が、眩《まば》ゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾《ひ》くともなしに弾いている。碧《みど》り積む水が肌に沁《し》む寒き色の中に、この女の影を倒《さか》しまに※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》す。投げ出《いだ》したる足の、長き裳《もすそ》に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦《す》る右の手が糸に沿うてゆるく揺《うご》く。頭《かしら》を纏《まと》う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然《たんぜん》たる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。
「岩の上なる我《われ》がまこと[#「まこと」に傍点]か、水の下なる影がまこと[#「まこと」に傍点]か」
 清く淋《さび》しい声である。風の度《わた》らぬ梢《こずえ》から黄な葉がはらはらと赤き衣にかかりて、池の面に落ちる。静かな影がちょと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然《ぼうぜん》として佇《たた》ずむ。
「まこと[#「まこと」に傍点]とは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムの方《かた》を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。
「恋に口惜《くや》しき命の占《うら》を、盾に問えかし、まぼろし[#「まぼろし」に傍点]の盾」
 ウィリアムは崖《がけ》を飛ぶ牡鹿《おじか》の如く、踵《くびす》をめぐらして、盾をとって来る。女「只懸命に盾の面《おもて》を見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾を抱《いだ》いて、池の縁に坐る。寥廓《りょうかく》なる天の下、蕭瑟《しょうしつ》なる林の裏《うち》、幽冷なる池の上に音と云う程の音は何《なん》にも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内輪が、例の如く環《めぐ》り出すと共に、昔しながらの微《かす》かな声が彼の耳を襲うのみである。「盾の中に何をか見る」と女は水の向より問う。「ありとある蛇の毛の動くは」とウィリアムが眼を放たずに答える。「物音は?」「鵞筆《がひつ》の紙を走る如くなり」
「迷いては、迷いてはしきりに動く心なり、音なき方に音をな聞きそ、音をな聞きそ」と女半ば歌うが如く、半ば語るが如く、岸を隔ててウィリアムに向けて手を波の如くふる。動く毛の次第にやみて、鳴る音も自《おのず》から絶ゆ。見入る盾の模様は霞《かす》むかと疑われて程なく盾の面に黒き幕かかる。見れども見えず、聞けども聞えず、常闇《とこやみ》の世に住む我を怪しみて「暗し、暗し」と云う。わが呼ぶ声のわれにすら聞かれぬ位|幽《かす》かなり。
「闇に烏を見ずと嘆かば、鳴かぬ声さえ聞かんと恋わめ、――身
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