をも命も、闇に捨てなば、身をも命も、闇に拾わば、嬉しかろうよ」と女の歌う声が百|尺《せき》の壁を洩《も》れて、蜘蛛《くも》の囲《い》の細き通い路より来《きた》る。歌はしばし絶えて弓擦る音の風誘う遠きより高く低く、ウィリアムの耳に限りなき清涼の気を吹く。その時暗き中に一点|白玉《はくぎょく》の光が点ぜらるる。見るうちに大きくなる。闇のひくか、光りの進むか、ウィリアムの眼の及ぶ限りは、四面|空蕩《くうとう》万里の層氷を建て連らねたる如く豁《ほがら》かになる。頭を蔽う天もなく、足を乗する地もなく冷瓏《れいろう》虚無の真中《まなか》に一人立つ。
「君は今いずくに居《お》わすぞ」と遙かに問うはかの女《おんな》の声である。
「無の中《うち》か、有の中か、玻璃《ハリ》瓶《びん》の中か」とウィリアムが蘇《よみ》がえれる人の様に答える。彼の眼はまだ盾を離れぬ。
 女は歌い出す。「以太利亜《イタリア》の、以太利亜の海紫に夜明けたり」
「広い海がほのぼのとあけて、……橙色《だいだいいろ》の日が浪から出る」とウィリアムが云う。彼の眼は猶盾を見詰めている。彼の心には身も世も何もない。只盾がある。髪毛の末から、足の爪先に至るまで、五臓六腑を挙げ、耳目口鼻《じもくこうび》を挙げて悉く幻影の盾である。彼の総身は盾になり切っている。盾はウィリアムでウィリアムは盾である。二つのものが純一無雑の清浄界《しょうじょうかい》にぴたりと合《お》うたとき――以太利亜の空は自《おのず》から明けて、以太利亜の日は自から出る。
 女は又歌う。「帆を張れば、舟も行くめり、帆柱に、何を掲げて……」
「赤だっ」とウィリアムは盾の中に向って叫ぶ。「白い帆が山影を横《よこぎ》って、岸に近づいて来る。三本の帆柱の左右は知らぬ、中なる上に春風《しゅんぷう》を受けて棚《たな》曳《び》くは、赤だ、赤だクララの舟だ」……舟は油の如く平《たいら》なる海を滑って難なく岸に近づいて来る。舳《へさき》に金色《きんいろ》の髪を日に乱して伸び上るは言うまでもない、クララである。
 ここは南の国で、空には濃き藍《あい》を流し、海にも濃き藍を流してその中に横《よこた》わる遠山《とおやま》もまた濃き藍を含んでいる。只春の波のちょろちょろと磯を洗う端だけが際限なく長い一条の白布と見える。丘には橄欖《かんらん》が深緑りの葉を暖かき日に洗われて、その葉裏には百《もも》千鳥《ちどり》をかくす。庭には黄な花、赤い花、紫の花、紅《くれない》の花――凡《すべ》ての春の花が、凡ての色を尽くして、咲きては乱れ、乱れては散り、散りては咲いて、冬知らぬ空を誰《たれ》に向って誇る。
 暖かき草の上に二人が坐って、二人共に青絹を敷いた様な海の面を遙かの下に眺めている。二人共に斑《ふ》入《い》りの大理石の欄干に身を靠《もた》せて、二人共に足を前に投げ出している。二人の頭の上から欄干を斜めに林檎《りんご》の枝が花の蓋《かさ》をさしかける。花が散ると、あるときはクララの髪の毛にとまり、ある時はウィリアムの髪の毛にかかる。又ある時は二人の頭と二人の袖にはらはらと一度にかかる。枝から釣るす籠《かご》の内で鸚鵡《おうむ》が時々けたたましい音《ね》を出す。
「南方の日の露に沈まぬうちに」とウィリアムは熱き唇をクララの唇につける。二人の唇の間に林檎の花の一片《ひとひら》がはさまって濡《ぬ》れたままついている。
「この国の春は長《とこし》えぞ」とクララ窘《たしな》める如くに云う。ウィリアムは嬉しき声に Druerie ! と呼ぶ。クララも同じ様に Druerie ! と云う。籠の中なる鸚鵡が Druerie ! と鋭どき声を立てる。遙か下なる春の海もドルエリと答える。海の向うの遠山もドルエリと答える。丘を蔽う凡ての橄欖《かんらん》と、庭に咲く黄な花、赤い花、紫の花、紅の花――凡ての春の花と、凡ての春の物が皆一斉にドルエリと答える。――これは盾の中の世界である。しかしてウィリアムは盾である。
 百年の齢《よわ》いは目出度《めでたく》も難有《ありがた》い。然しちと退屈じゃ。楽《たのしみ》も多かろうが憂も長かろう。水臭い麦酒《ビール》を日毎に浴びるより、舌を焼く酒精《アルコール》を半滴味わう方が手間がかからぬ。百年を十で割り、十年を百で割って、剰《あま》すところの半時に百年の苦楽を乗じたらやはり百年の生を享《う》けたと同じ事じゃ。泰山もカメラの裏《うち》に収まり、水素も冷ゆれば液となる。終生の情けを、分《ふん》と縮め、懸命の甘きを点と凝らし得《う》るなら――然しそれが普通の人に出来る事だろうか? ――この猛烈な経験を嘗《な》め得たものは古往今来ウィリアム一|人《にん》である。(二月十八日)



底本:「倫敦塔・幻影の盾」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年7月10日初版発行
   1968(昭和43)年9月15日20刷改版発行
   1997(平成9)年4月25日69刷発行
※底本本文では、「※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》す」は、「くさかんむり/(酉+隹)」とつくってある。しかし、下記の異本とも照合の上、当該の箇所は「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」で入力した。
   「倫敦塔・幻影の盾」岩波文庫、岩波書店
   1930(昭和5)年12月20日第1刷発行
   1990(平成2)年4月16日第23刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第30刷発行
   ちくま文庫「夏目漱石全集2」筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日初版第1刷発行
   親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
入力:藤本篤子
校正:かとうかおり
1998年9月19日公開
2004年2月28日修正
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