むこう》へ渡ると日の目が多い、暖かじゃ。それに酒が甘くて金が落ちている。土一升に金一升……うそじゃ無い、本間《ほんま》の話じゃ。手を振るのは聞きとも無いと云うのか。もう落付いて一所に話す折もあるまい。シワルドの名残の談義だと思うて聞いてくれ。そう滅入《めい》らんでもの事よ」宵に浴びた酒の気《き》がまだ醒《さ》めぬのかゲーと臭いのをウィリアムの顔に吹きかける。「いやこれは御無礼……何を話す積りであった。おおそれだ、その酒の湧《わ》く、金の土に交る海の向での」とシワルドはウィリアムを覗《のぞ》き込む。
「主《ぬし》が女に可愛《かあい》がられたと云うのか」
「ワハハハ女にも数多《あまた》近付はあるが、それじゃない。ボーシイルの会を見たと云う事よ」
「ボーシイルの会?」
「知らぬか。薄黒い島国に住んでいては、知らぬも道理じゃ。プロヴォンサルの伯とツールースの伯の和睦の会はあちらで誰れも知らぬものはないぞよ」
「ふむそれが?」とウィリアムは浮かぬ顔である。
「馬は銀の沓《くつ》をはく、狗《いぬ》は珠の首輪をつける……」
「金の林檎《りんご》を食う、月の露を湯に浴びる……」と平かならぬ人のならい、ウィリアムは嘲《あざけ》る様に話の糸を切る。
「まあ水を指さずに聴け。うそでも興があろう」と相手は切れた糸を接《つな》ぐ。
「試合の催しがあると、シミニアンの太守が二十四頭の白牛を駆って埒《らち》の内を奇麗に地ならしする。ならした後へ三万枚の黄金を蒔《ま》く。するとアグーの太守がわしは勝ち手にとらせる褒美《ほうび》を受持とうと十万枚の黄金を加える。マルテロはわしは御馳走役じゃと云うて蝋燭《ろうそく》の火で煮焼《にたき》した珍味を振舞うて、銀の皿小鉢を引出物に添える」
「もう沢山じゃ」とウィリアムが笑いながら云う。
「ま一つじゃ。仕舞にレイモンが今まで誰も見た事のない遊びをやると云うて先《ま》ず試合の柵《さく》の中へ三十本の杭《くい》を植える。それに三十頭の名馬を繋ぐ。裸馬ではない鞍《くら》も置き鐙《あぶみ》もつけ轡《くつわ》手綱《たづな》の華奢《きゃしゃ》さえ尽してじゃ。よいか。そしてその真中へ鎧、刀これも三十人分、甲は無論|小手《こて》脛当《すねあて》まで添えて並べ立てた。金高《かねだか》にしたらマルテロの御馳走よりも、嵩《かさ》が張ろう。それから周りへ薪《たきぎ》を山の様に積んで、火を掛けての、馬も具足も皆焼いてしもうた。何とあちらのものは豪興をやるではないか」と話し終ってカラカラと心地よげに笑う。
「そう云う国へ行って見よと云うに主も余程意地張りだなあ」と又ウィリアムの胸の底へ探りの石を投げ込む。
「そんな国に黒い眼、黒い髪の男は無用じゃ」とウィリアムは自ら嘲る如くに云う。
「やはりその金色の髪の主の居る所が恋しいと見えるな」
「言うまでもない」とウィリアムはきっとなって幻影の盾を見る。中庭の隅《すみ》で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリ[#「ヤスリ」に傍点]の響が聞え出す。夜はいつの間にかほのぼのと明け渡る。
七日《なぬか》に逼《せま》る戦は一日の命を縮めて愈六日となった。ウィリアムはシーワルドの勧むるままにクララへの手紙を認《したた》める。心が急《せ》くのと、わきが騒がしいので思う事の万分《まんぶ》一も書けぬ。「御身の髪は猶わが懐にあり、只この使と逃げ落ちよ、疑えば魔多し」とばかりで筆を擱《お》く。この手紙を受取ってクララに渡す者はいずこの何者か分らぬ。その頃|流行《はや》る楽人の姿となって夜鴉の城に忍び込んで、戦あるべき前の晩にクララを奪い出して舟に乗せる。万一手順が狂えば隙《すき》を見て城へ火をかけても志を遂げる。これだけの事はシーワルドから聞いた、そのあとは……幻影の盾のみ知る。
逢うはうれし、逢わぬは憂し。憂し嬉しの源から珠を欺く涙が湧いて出る。この清き者に何故流れるぞと問えば知らぬと云う。知らぬとは自然と云う意か。マリアの像の前に、跪《ひざまず》いて祈願を凝せるウィリアムが立ち上ったとき、長い睫《まつげ》がいつもより重た気に見えたが、なぜ重いのか彼にも分らなかった。誠は誠を自覚すれどもその他を知らぬ。その夜の夢に彼れは五彩の雲に乗るマリアを見た。マリアと見えたるはクララを祭れる姿で、クララとは地に住むマリアであろう。祈らるる神、祈らるる人は異なれど、祈る人の胸には神も人も同じ願の影法師に過ぎぬ。祭る聖母は恋う人の為め、人恋うは聖母に跪く為め。マリアとも云え、クララとも云え。ウィリアムの心の中に二つのものは宿らぬ。宿る余地あらばこの恋は嘘《うそ》の恋じゃ。夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリ[#「ヤスリ」に傍点]の響が聞えて、例の如く夜が明ける。戦は愈せまる。
五日目から四日目に移るは俯《ふ》せたる手を翻がえす間と思われ、四日目から三日目に進むは翻がえす手を故《もと》に還《かえ》す間と見えて、三日、二日より愈戦の日を迎えたるときは、手さえ動かすひまなきに襲い来る如く感ぜられた。「飛ばせ」とシーワルドはウィリアムを顧みて云う。並ぶ轡《くつわ》の間から鼻嵐が立って、二つの甲が、月下に躍《おど》る細鱗《さいりん》の如く秋の日を射返す。「飛ばせ」とシーワルドが踵《かかと》を半ば馬の太腹に蹴込む。二人の頭《かしら》の上に長く挿《さ》したる真白な毛が烈《はげ》しく風を受けて、振り落さるるまでに靡《なび》く。夜鴉の城壁を斜めに見て、小高き丘に飛ばせたるシーワルドが右手《めて》を翳《かざ》して港の方《かた》を望む。「帆柱に掲げた旗は赤か白か」と後《おく》れたるウィリアムは叫ぶ。「白か赤か、赤か白か」と続け様に叫ぶ。鞍壺《くらつぼ》に延び上ったるシーワルドは体《たい》をおろすと等しく馬を向け直して一散に城門の方へ飛ばす。「続け、続け」とウィリアムを呼ぶ。「赤か、白か」とウィリアムは叫ぶ。「阿呆《あほう》、丘へ飛ばすより壕《ほり》の中へ飛ばせ」とシーワルドはひたすらに城門の方へ飛ばす。港の入口には、埠頭《ふとう》を洗う浪を食って、胴の高い船が心細く揺れている。魔に襲われて夢安からぬ有様である。左右に低き帆柱を控えて、中に高き一本の真上には――「白だッ」とウィリアムは口の中で言いながら前歯で唇を噛《か》む。折柄《おりから》戦の声は夜鴉の城を撼《ゆる》がして、淋しき海の上に響く。
城壁の高さは四《よ》丈、丸櫓《まるやぐら》の高さはこれを倍して、所々に壁を突き抜いて立つ。天の柱が落ちてその真中に刺された如く見ゆるは本丸であろう。高さ十九丈壁の厚《あつさ》は三丈四尺、これを四階に分って、最上の一層にのみ窓を穿《うが》つ。真上より真下に降《くだ》る井戸の如き道ありて、所謂《いわゆる》ダンジョンは尤《もっと》も低く尤も暗き所に地獄と壁一重を隔てて設けらるる。本丸の左右に懸け離れたる二つの櫓は本丸の二階から家根付の橋を渡して出入《しゅつにゅう》の便りを計る。櫓を環《めぐ》る三々五々の建物には厩《うまや》もある。兵士の住居《すまい》もある。乱を避くる領内の細民が隠るる場所もある。後ろは切岸《きりぎし》に海の鳴る音を聞き、砕くる浪の花の上に舞い下りては舞い上る鴎《かもめ》を見る。前は牛を呑むアーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋《はねばし》を鉄鎖に引けば人の踰《こ》えぬ濠《ほり》である。
濠を渡せば門も破ろう、門を破れば天主も抜こう、志ある方に道あり、道ある方に向えとルーファスは打ち壊したる扉の隙より、黒金につつめる狼《おおかみ》の顔を会釈もなく突き出す。あとに続けと一人が従えば、尻を追えと又一人が進む。一人二人の後は只我先にと乱れ入る。むくむくと湧く清水に、こまかき砂の浮き上りて一度に漾《ただよ》う如く見ゆる。壁の上よりは、ありとある弓を伏せて蝟《い》の如く寄手の鼻頭《はなさき》に、鉤《かぎ》と曲る鏃《やじり》を集める。空を行く長き箭《や》の、一矢毎に鳴りを起せば数千の鳴りは一と塊りとなって、地上に蠢《うごめ》く黒影の響に和して、時ならぬ物音に、沖の鴎を驚かす。狂えるは鳥のみならず。秋の夕日を受けつ潜《くぐ》りつ、甲《かぶと》の浪|鎧《よろい》の浪が寄せては崩れ、崩れては退《ひ》く。退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程の鬨《とき》を作る。寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワルドが剣で招けば、「死ぬところじゃ」とウィリアムが高く盾を翳す。右に峙《そばだ》つ丸櫓の上より飛び来る矢が戞《かつ》と夜叉の額を掠《かす》めてウィリアムの足の下へ落つる。この時崩れかかる人浪は忽《たちま》ち二人の間を遮《さえぎ》って、鉢金を蔽《おお》う白毛の靡きさえ、暫《しばら》くの間に、旋《めぐ》る渦の中に捲き込まれて見えなくなる。戦は午《ご》を過ぐる二た時余りに起って、五時と六時の間にも未《ま》だ方《かた》付かぬ。一度びは猛《たけ》き心に天主をも屠《ほふ》る勢であった寄手の、何にひるんでか蒼然《そうぜん》たる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出される。搏《う》つ音の絶えたるは一|時《じ》の間か。暫らくは鳴りも静まる。
日は暮れ果てて黒き夜の一|寸《すん》の隙間なく人馬を蔽う中に、砕くる波の音が忽ち高く聞える。忽ち聞えるは始めて海の鳴るにあらず、吾が鳴りの暫らく已《や》んで空しき心の迎えたるに過ぎぬ。この浪の音は何里の沖に萌《きざ》してこの磯の遠きに崩るるか、思えば古き響きである。時の幾代を揺がして知られぬ未来に響く。日を捨てず夜を捨てず、二六時中繰り返す真理は永劫《えいごう》無極の響きを伝えて剣打つ音を嘲り、弓引く音を笑う。百と云い千と云う人の叫びの、はかなくて憐《あわれ》むべきを罵《ののし》るときかれる。去れど城を守るものも、城を攻むるものも、おのが叫びの纔《わず》かにやんで、この深き響きを不用意に聞き得たるとき耻《は》ずかしと思えるはなし。ウィリアムは盾に凝る血の痕《あと》を見て「汝われをも呪うか」と剣を以て三たび夜叉の面を叩く。ルーファスは「烏なれば闇にも隠れん月照らぬ間に斬《き》って棄よ」と息捲く。シーワルドばかりは額の奥に嵌《は》め込まれたる如き双の眼《まなこ》を放って高く天主を見詰めたるまま一|言《こと》もいわぬ。
海より吹く風、海へ吹く風と変りて、砕くる浪と浪の間にも新たに天地の響を添える。塔を繞《めぐ》る音、壁にあたる音の次第に募ると思ううち、城の内にて俄《にわ》かに人の騒ぐ気合《けはい》がする。それが漸々《だんだん》烈しくなる。千里の深きより来《きた》る地震の秒を刻み分を刻んで押し寄せるなと心付けばそれが夜鴉の城の真下で破裂したかと思う響がする。――シーワルドの眉《まゆ》は毛虫を撲《う》ちたるが如く反《そ》り返る。――櫓の窓から黒|烟《けむ》りが吹き出す。夜の中に夜よりも黒き烟りがむくむくと吹き出す。狭き出口を争うが為めか、烟の量は見る間に増して前なるは押され、後《あと》なるは押し、並ぶは互に譲るまじとて同時に溢《あふ》れ出《い》ずる様に見える。吹き募る野分《のわき》は真《ま》ともに烟を砕いて、丸く渦を巻いて迸《ほとばし》る鼻を、元の如く窓へ圧し返そうとする。風に喰い留められた渦は一度になだれて空に流れ込む。暫くすると吹き出す烟りの中に火の粉が交じり出す。それが見る間に殖える。殖えた火の粉は烟|諸共《もろとも》風に捲かれて大空に舞い上る。城を蔽う天の一部が櫓を中心として大なる赤き円を描いて、その円は不規則に海の方《かた》へと動いて行く。火の粉を梨地《なしじ》に点じた蒔絵《まきえ》の、瞬時の断間《たえま》もなく或《あるい》は消え或は輝きて、動いて行く円の内部は一点として活きて動かぬ箇所はない。――「占めた」とシーワルドは手を拍《う》って雀躍《こおどり》する。
黒烟りを吐き出して、吐き尽したる後は、太き火※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《
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