う》が漏れて、物の色の定かに見えぬ中に幻影の盾のみが闇に懸る大蜘蛛《おおぐも》の眼《まなこ》の如く光る。「盾がある、まだ盾がある」とウィリアムは烏《からす》の羽の様な滑《なめら》かな髪の毛を握ってがばと跳ね起る。中庭の隅では鉄を打つ音、鋼《はがね》を鍛える響、槌の音やすり[#「やすり」に傍点]の響が聞え出す。戦は日一日と逼《せま》ってくる。
 その日の夕暮に一城の大衆が、無下《むげ》に天井の高い食堂に会して晩餐《ばんさん》の卓に就いた時、戦の時期は愈《いよいよ》狼将軍の口から発布された。彼は先ず夜鴉の城主の武士道に背《そむ》ける罪を数えて一門の面目を保つ為めに七日《なぬか》の夜を期して、一挙にその城を屠《ほふ》れと叫んだ。その声は堂の四壁を一周して、丸く組み合せたる高い天井に突き当ると思わるる位大きい。戦は固《もと》より近づきつつあった。ウィリアムは戦の近づきつつあるを覚悟の前でこの日この夜を過ごしていた。去れど今ルーファスの口から愈七日の後と聞いた時はさすがの覚悟も蟹《かに》の泡の、蘆《あし》の根を繞《めぐ》らぬ淡き命の如くにいずくへか消え失せてしまった。夢ならぬを夢と思いて、思い終《おお》せぬ時は、無理ながら事実とあきらめる事もある。去れどその事実を事実と証する程の出来事が驀地《ばくち》に現前せぬうちは、夢と思うてその日を過すが人の世の習いである。夢と思うは嬉しく、思わぬがつらいからである。戦は事実であると思案の臍《ほぞ》を堅めたのは昨日や今日の事ではない。只事実に相違ないと思い定めた戦いが、起らんとして起らぬ為め、であれかしと願う夢の思い[#「夢の思い」に傍点]は却《かえ》って「事実になる」の念を抑《おさ》ゆる事もあったのであろう。一年は三百六十五日、過ぐるは束《つか》の間である。七日とは一年の五十|分《ぶ》一にも足らぬ。右の手を挙げて左の指を二本加えればすぐに七である。名もなき鬼に襲われて、名なき故に鬼にあらずと、強《し》いて思いたるに突然正体を見付けて今更眼力の違《たが》わぬを口惜《くちお》しく思う時の感じと異なる事もあるまい。ウィリアムは真青《まっさお》になった。隣りに坐したシワルドが病気かと問う。否と答えて盃を唇につける。充たざる酒の何に揺れてか縁を越して卓の上を流れる。その時ルーファスは再び起って夜鴉の城を、城の根に張る巌《いわお》もろともに海に落せと盃を眉のあたりに上げて隼《はやぶさ》の如く床の上に投げ下《くだ》す。一座の大衆はフラーと叫んで血の如き酒を啜《すす》る。ウィリアムもフラーと叫んで血の如き酒を啜る。シワルドもフラーと叫んで血の如き酒を啜りながら尻目にウィリアムを見る。ウィリアムは独り立って吾|室《へや》に帰りて、人の入らぬ様に内側から締りをした。
 盾だ愈盾だとウィリアムは叫びながら室の中をあちらこちらと歩む。盾は依然として壁に懸っている。ゴーゴン・メジューサとも較ぶべき顔は例に由《よ》って天地人を合せて呪い、過去|現世《げんぜ》未来に渉《わた》って呪い、近寄るもの、触るるものは無論、目に入らぬ草も木も呪い悉《つく》さでは已まぬ気色《けしき》である。愈この盾を使わねばならぬかとウィリアムは盾の下にとまって壁間を仰ぐ。室の戸を叩く音のする様な気合《けはい》がする。耳を峙《そばだ》てて聞くと何の音でもない。ウィリアムは又|内懐《うちぶところ》からクララの髪毛《かみげ》を出す。掌《たなごごろ》に乗せて眺めるかと思うと今度はそれを叮嚀《ていねい》に、室の隅に片寄せてある三本脚の丸いテーブルの上に置いた。ウィリアムは又内懐へ手を入れて胸の隠しの裏《うち》から何か書付の様なものを攫《つか》み出す。室の戸口まで行って横にさした鉄の棒の抜けはせぬかと振り動かして見る。締《しまり》は大丈夫である。ウィリアムは丸机に倚《よ》って取り出した書付を徐《おもむ》ろに開く。紙か羊皮か慥《たし》かには見えぬが色合の古び具合から推すと昨今の物ではない。風なきに紙の表てが動くのは紙が己《おの》れと動くのか、持つ手の動くのか。書付の始めには「幻影の盾の由来」とかいてある。すれたものか文字のあとが微かに残っているばかりである。「汝《なんじ》が祖ウィリアムはこの盾を北の国の巨人に得たり。……」ここにウィリアムとあるはわが四世の祖だとウィリアムが独り言う。「黒雲の地を渡る日なり。北の国の巨人は雲の内より振り落されたる鬼の如くに寄せ来る。拳《こぶし》の如き瘤《こぶ》のつきたる鉄棒を片手に振り翳《かざ》して骨も摧《くだ》けよと打てば馬も倒れ人も倒れて、地を行く雲に血潮を含んで、鳴る風に火花をも見る。人を斬るの戦にあらず、脳を砕き胴を潰《つぶ》して、人という形を滅せざれば已まざる烈《はげ》しき戦なり。……」ウィリアムは猛《たけ》き者共よと眉をひそめて、舌を打つ。「わが渡り合いしは巨人の中の巨人なり。銅板に砂を塗れる如き顔の中に眼《まなこ》懸りて稲妻《いなずま》を射る。我を見て南方の犬尾を捲《ま》いて死ねと、かの鉄棒を脳天より下す。眼を遮《さえぎ》らぬ空の二つに裂くる響して、鉄の瘤はわが右の肩先を滑《す》べる。繋《つな》ぎ合せて肩を蔽《おお》える鋼鉄《はがね》の延板の、尤《もっと》も外に向えるが二つに折れて肉に入る。吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜《ななめ》に斫《き》って戞《かつ》と鳴るのみ。……」ウィリアムは急に眼を転じて盾の方を見る。彼の四世の祖が打ち込んだ刀痕《とうこん》は歴然と残っている。ウィリアムは又読み続ける。「われ巨人を切る事三|度《たび》、三度目にわが太刀は鍔元《つばもと》より三つに折れて巨人の戴く甲の鉢金の、内側に歪《ゆが》むを見たり。巨人の椎《つい》を下すや四たび、四たび目に巨人の足は、血を含む泥を蹴《け》て、木枯の天狗《てんぐ》の杉を倒すが如く、薊《あざみ》の花のゆらぐ中に、落雷も耻《は》じよとばかり※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]《どう》と横たわる。横たわりて起きぬ間を、疾《と》くも縫えるわが短刀の光を見よ。吾ながら又なき手柄なり。……」ブラヴォーとウィリアムは小声に云う。「巨人は云う、老牛の夕陽に吼《ほ》ゆるが如き声にて云う。幻影の盾を南方の豎子《じゅし》に付与す、珍重に護持せよと。われ盾を翳《かざ》してその所以《ゆえん》を問うに黙して答えず。強《し》いて聞くとき、彼両手を揚げて北の空を指《ゆびさ》して曰《いわ》く。ワルハラの国オジンの座に近く、火に溶けぬ黒鉄《くろがね》を、氷の如き白炎に鋳たるが幻影の盾なり。……」この時戸口に近く、石よりも堅き廊下の床を踏みならす音がする。ウィリアムは又|起《た》って扉に耳を付けて聴く。足音は部屋の前を通り越して、次第に遠ざかる下から、壁の射返す響のみが朗らかに聞える。何者か暗窖《あんこう》の中へ降りていったのであろう。「この盾何の奇特《きどく》かあると巨人に問えば曰く。盾に願え、願《ねご》うて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あり。人に語るな語るとき盾の霊去る。……汝盾を執って戦に臨めば四囲の鬼神汝を呪うことあり。呪われて後|蓋天《がいてん》蓋地の大歓喜に逢うべし。只盾を伝え受くるものにこの秘密を許すと。南国の人この不祥の具を愛せずと盾を棄てて去らんとすれば、巨人手を振って云う。われ今浄土ワルハラに帰る、幻影の盾を要せず。百年の後南方に赤衣《せきい》の美人あるべし。その歌のこの盾の面《おもて》に触るるとき、汝の児孫盾を抱《いだ》いて抃舞《べんぶ》するものあらんと。……」汝の児孫[#「汝の児孫」に傍点]とはわが事ではないかとウィリアムは疑う。表に足音がして室《へや》の戸の前に留った様である。「巨人は薊の中に斃《たお》れて、薊の中に残れるはこの盾なり」と読み終ってウィリアムが又壁の上の盾を見ると蛇の毛は又|揺《うご》き始める。隙間《すきま》なく縺《もつ》れた中を下へ下へと潜《もぐ》りて盾の裏側まで抜けはせぬかと疑わるる事もあり、又上へ上へともがき出て五寸の円の輪廓《りんかく》だけが盾を離れて浮き出はせぬかと思わるる事もある。下に動くときも上に揺り出す時も同じ様に清水《しみず》が滑《なめら》かな石の間を※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》る時の様な音が出る。只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたまって耳朶《じだ》に達するのは以前と異なる事はない。動くものは必ず鳴ると見えるに、蛇の毛は悉く動いているからその音も蛇の毛の数だけはある筈であるが――如何《いか》にも低い。前の世の耳語《ささや》きを奈落《ならく》の底から夢の間に伝える様に聞かれる。ウィリアムは茫然《ぼうぜん》としてこの微音を聞いている。戦《いくさ》も忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸を敲《たた》くものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうともしない。ことことと再び敲く。ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口の方《かた》に三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔《どうこう》に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急《せ》くか、厚い樫《かし》の扉を拳《こぶし》にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急に懐《ふところ》へかくす。敲く音は益|逼《せま》って絶間なく響く。開けぬかと云う声さえ聞える。
「戸を敲くは誰《た》ぞ」と鉄の栓張《しんばり》をからりと外す。切り岸の様な額の上に、赤黒き髪の斜めにかかる下から、鋭どく光る二つの眼《まなこ》が遠慮なく部屋の中へ進んで来る。
「わしじゃ」とシワルドが、進めぬ先から腰懸の上にどさと尻を卸す。「今日の晩食に顔色が悪う見えたから見舞に来た」と片足を宙にあげて、残れる膝の上に置く。
「さした事もない」とウィリアムは瞬《またた》きして顔をそむける。
「夜鴉《よがらす》の羽搏《はばた》きを聞かぬうちに、花多き国に行く気はないか」とシワルドは意味|有気《ありげ》に問う。
「花多き国とは?」
「南の事じゃ、トルバダウの歌の聞ける国じゃ」
「主《ぬし》がいにたいと云うのか」
「わしは行かぬ、知れた事よ。もう六つ、日の出を見れば、夜鴉の栖《す》を根から海へ蹴落《けおと》す役目があるわ。日の永い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切からじゃ。ワハハハハ」とシワルドは傍若無人に笑う。
「鳴かぬ烏の闇に滅《め》り込むまでは……」と六尺一寸の身をのして胸板を拊《う》つ。
「霧深い国を去らぬと云うのか。その金色の髪の主となら満更|嫌《いや》でもあるまい」と丸テーブルの上を指《ゆびさ》す。テーブルの上にはクララの髪が元の如く乗っている。内懐《うちぶところ》へ収めるのをつい忘れた。ウィリアムは身を伸《の》したまま口籠《くちごも》る。
「鴉に交る白い鳩を救う気はないか」と再び叢中《そうちゅう》に蛇を打つ。
「今から七日《なぬか》過ぎた後《あと》なら……」と叢中の蛇は不意を打れて已《やむ》を得ず首を擡《もた》げかかる。
「鴉を殺して鳩だけ生かそうと云う注文か……それは少し無理じゃ。然し出来ぬ事もあるまい。南から来て南へ帰る船がある。待てよ」と指を折る。「そうじゃ六日目の晩には間に合うだろう。城の東の船付場へ廻して、あの金色の髪の主を乗せよう。不断は帆柱の先に白い小旗を揚げるが、女が乗ったら赤に易《か》えさせよう。軍《いく》さは七日目の午過からじゃ、城を囲めば港が見える。柱の上に赤が見えたら天下太平……」
「白が見えたら……」とウィリアムは幻影の盾を睨《にら》む。夜叉《やしゃ》の髪の毛は動きもせぬ、鳴りもせぬ。クララかと思う顔が一寸見えて又もとの夜叉に返る。
「まあ、よいわ、どうにかなる心配するな。それよりは南の国の面白い話でもしょう」とシワルドは渋色の髭《ひげ》を無雑作に掻《か》いて、若き人を慰める為か話頭を転ずる。
「海一つ向《
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング