まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それで戦《いくさ》が出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身もそう思っている。ウィリアムは幻影《まぼろし》の盾を翳《かざ》して戦う機会があれば……と思っている。
白城の城主狼のルーファス[#「ルーファス」に傍点]と夜鴉の城主とは二十年来の好《よし》みで家の子|郎党《ろうどう》の末に至るまで互《たがい》に往き来せぬは稀《まれ》な位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年《こぞ》の春の初からである。源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの口論からと唱え、又は夜鴉の城主の愛女クララの身の上に係る衝突に本づくとも言触らす。過ぐる日の饗筵《きょうえん》に、卓上の酒尽きて、居並ぶ人の舌の根のしどろに緩《ゆる》む時、首席を占むる隣り合せの二人が、何事か声高《こわだか》に罵《ののし》る声を聞かぬ者はなかった。「月に吠ゆる狼《おおかみ》の……ほざくは」と手にしたる盃を地に抛《なげう》って、夜鴉の城主は立ち上る。盃の底に残れる赤き酒の、斑《まだ》らに床を染めて飽きたらず、摧《くだ》けたる※[#「角+光」、第3水準1−91−91]片《こうへん》と共にルーファスの胸のあたりまで跳ね上る。「夜《よ》迷《ま》い烏の黒き翼を、切って落せば、地獄の闇《やみ》ぞ」とルーファスは革に釣る重き剣に手を懸けてするすると四五寸ばかり抜く。一座の視線は悉く二人の上に集まる。高き窓洩る夕日を脊に負う、二人の黒き姿の、この世の様とも思われぬ中に、抜きかけた剣のみが寒き光を放つ。この時ルーファスの次に座を占めたるウィリアムが「渾名《あだな》こそ狼なれ、君が剣に刻《きざ》める文字に耻《は》じずや」と右手《めて》を延ばしてルーファスの腰のあたりを指《ゆびさ》す。幅広き刃《やいば》の鍔《つば》の真下に pro gloria et patria と云う銘が刻んである。水を打った様な静かな中に、只ルーファスが抜きかけた剣を元の鞘《さや》に収むる声のみが高く響いた。これより両家の間は長く中絶えて、ウィリアムの乗り馴《な》れた栗毛《くりげ》の馬は少しく肥えた様に見えた。
近頃は戦さの噂《うわさ》さえ頻《しき》りである。睚眦《がいさい》の恨《うらみ》は人を欺く笑《えみ》の衣に包めども、解け難き胸の乱れは空吹く風の音にもざわつく。夜となく日となく磨きに磨く刃の冴《さえ》は、人を屠《ほふ》る遺恨の刃を磨くのである。君の為め国の為めなる美しき名を藉《か》りて、毫釐《ごうり》の争に千里の恨を報ぜんとする心からである。正義と云い人道と云うは朝|嵐《あらし》に翻がえす旗にのみ染め出《いだ》すべき文字《もんじ》で、繰り出す槍の穂先には瞋恚《しんい》の※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほむら》が焼け付いている。狼は如何にして鴉と戦うべき口実を得たか知らぬ。鴉は何を叫んで狼を誣《し》ゆる積りか分らぬ。只時ならぬ血潮とまで見えて迸《ほと》ばしりたる酒の雫《しずく》の、胸を染めたる恨を晴さでやとルーファスがセント・ジョージに誓えるは事実である。尊き銘は剣にこそ彫れ、抜き放ちたる光の裏《うち》に遠吠ゆる狼を屠らしめたまえとありとあらゆるセイントに夜鴉の城主が祈念を凝《こら》したるも事実である。両家の間の戦は到底免かれない。いつ[#「いつ」に傍点]というだけが問題である。
末の世の尽きて、その末の世の残るまでと誓いたる、クララの一門に弓をひくはウィリアムの好まぬところである。手創《てきず》負いて斃《たお》れんとする父とたよりなき吾《われ》とを、敵の中より救いたるルーファスの一家《いっけ》に事ありと云う日に、膝《ひざ》を組んで動かぬのはウィリアムの猶好まぬところである。封建の代のならい、主と呼び従と名乗る身の危きに赴《おもむ》かで、人に卑怯《ひきょう》と嘲《あざ》けらるるは彼の尤《もっと》も好まぬところである。甲《かぶと》も着よう、鎧《よろい》も繕おう、槍も磨こう、すわという時は真先に行こう……然しクララはどうなるだろう。負ければ打死をする。クララには逢えぬ。勝てばクララが死ぬかも知れぬ。ウィリアムは覚えず空に向って十字を切る。今の内姿を窶《やつ》して、クララと落ち延びて北の方《かた》へでも行こうか。落ちた後で朋輩《ほうばい》が何というだろう。ルーファスが人でなしと云うだろう。内懐《うちぶところ》からクララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る。長い薄色の毛が、麻を砧《きぬた》で打って柔かにした様にゆるくうねってウィリアムの手から下がる。ウィリアムは髪を見詰めていた視線を茫然《ぼうぜん》とわきへそらす。それが器械的に壁の上へ落ちる。壁の上にかけてある盾の真中で優しいクララの顔が笑っている。去年分れた時の顔と寸分|違《たが》わぬ。顔の周囲を巻いている髪の毛が……ウィリアムは呪われたる人の如くに、千里の遠きを眺めている様な眼付で石の如く盾を見ている。日の加減か色が真青だ。……顔の周囲を巻いている髪の毛が、先《さ》っきから流れる水に漬けた様にざわざわと動いている。髪の毛ではない無数の蛇の舌が断間なく震動して五寸の円の輪を揺り廻るので、銀地に絹糸の様に細い炎が、見えたり隠れたり、隠れたり見えたり、渦を巻いたり、波を立てたりする。全部が一度に動いて顔の周囲を廻転するかと思うと、局部が纔《わず》かに動きやんで、すぐその隣りが動く。見る間に次へ次へと波動が伝わる様にもある。動く度《たび》に舌の摩《す》れ合う音でもあろう微かな声が出る。微かではあるが只一つの声ではない、漸《ようや》く鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。耳に落つる一の音が聴けば聴く程多くの音がかたまって出来上った様に明かに聞き取られる。盾の上に動く物の数多きだけ、音の数も多く、又その動くものの定かに見えぬ如く、出る音も微《かす》かであららかには鳴らぬのである。……ウィリアムは手に下げたるクララの金毛を三たび盾に向って振りながら「盾! 最後の望は幻影《まぼろし》の盾にある」と叫んだ。
戦は潮《うしお》の河に上る如く次第に近付いて来る。鉄を打つ音、鋼《はがね》を鍛《きた》える響、槌《つち》の音、やすり[#「やすり」に傍点]の響は絶えず中庭の一隅に聞える。ウィリアムも人に劣らじと出陣の用意はするが、時には殺伐な物音に耳を塞《ふさ》いで、高き角櫓《すみやぐら》に上《のぼ》って遙《はる》かに夜鴉の城の方を眺める事がある。霧深い国の事だから眼に遮《さえ》ぎる程の物はなくても、天気の好い日に二十|哩《マイル》先は見えぬ。一面に茶渋を流した様な曠《こう》野《や》が逼《せま》らぬ波を描いて続く間に、白金《しろがね》の筋が鮮《あざや》かに割り込んでいるのは、日毎の様に浅瀬を馬で渡した河であろう。白い流れの際立ちて目を牽《ひ》くに付けて、夜鴉の城はあの見当だなと見送る。城らしきものは霞《かすみ》の奥に閉じられて眸底《ぼうてい》には写らぬが、流るる銀《しろがね》の、烟《けむり》と化しはせぬかと疑わるまで末広に薄れて、空と雲との境に入る程は、翳《かざ》したる小手《こて》の下より遙かに双の眼《まなこ》に聚《あつ》まってくる。あの空とあの雲の間が海で、浪の噛《か》む切立《きった》ち岩の上に巨巌《きょがん》を刻んで地から生えた様なのが夜鴉の城であると、ウィリアムは見えぬ所を想像で描き出す。若《も》しその薄黒く潮風に吹き曝《さら》された角窓の裏《うち》に一人物を画き足したなら死竜《しりょう》は忽《たちま》ち活《い》きて天に騰《のぼ》るのである。天晴《てんせい》に比すべきものは何人《なんびと》であろう、ウィリアムは聞かんでも能《よ》く知っている。
目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床《ふしど》の上に六尺一寸の長躯《ちょうく》を投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった。只髪の毛は今の様に金色であった……ウィリアムは又|内懐《うちぶところ》からクララの髪の毛を出して眺める。クララはウィリアムを黒い眼の子、黒い眼の子と云ってからかった。クララの説によると黒い眼の子は意地が悪い、人がよくない、猶太《ユダヤ》人かジプシイでなければ黒い眼色のものはない。ウィリアムは怒って夜鴉の城へはもう来ぬと云ったらクララは泣き出して堪忍《かんにん》してくれと謝した事がある。……二人して城の庭へ出て花を摘んだ事もある。赤い花、黄な花、紫の花――花の名は覚えておらん――色々の花でクララの頭と胸と袖を飾ってクイーンだクイーンだとその前に跪《ひざま》ずいたら、槍を持たない者はナイトでないとクララが笑った。……今は槍もある、ナイトでもある、然しクララの前に跪く機会はもうあるまい。ある時は野へ出て蒲公英《たんぽぽ》の蕊《しべ》を吹きくらをした。花が散ってあとに残る、むく毛を束《つか》ねた様に透明な球をとってふっと吹く。残った種の数でうらないをする。思う事が成るかならぬかと云いながらクララが一吹きふくと種の数が一つ足りないので思う事が成らぬと云う辻《つじ》うらであった。するとクララは急に元気がなくなって俯向《うつむ》いてしまった。何を思って吹いたのかと尋ねたら何でもいいと何時になく邪慳《じゃけん》な返事をした。その日は碌々《ろくろく》口もきかないで塞《ふさ》ぎ込んでいた。……春の野にありとあらゆる蒲公英をむしって息の続づかぬまで吹き飛ばしても思う様な辻占は出ぬ筈だとウィリアムは怒る如くに云う。然しまだ盾と云う頼みがあるからと打消すように添える。……これは互に成人してからの事である。夏を彩《いろ》どる薔薇《ばら》の茂みに二人座をしめて瑠璃《るり》に似た青空の、鼠色に変るまで語り暮した事があった。騎士の恋には四期があると云う事をクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇《ちゅうちょ》の時期と名づける、これは女の方でこの恋を斥《しりぞ》けようか、受けようかと思い煩《わずら》う間の名である」といいながらクララの方を見た時に、クララは俯向《うつむ》いて、頬のあたりに微《かす》かなる笑《えみ》を漏《もら》した。「この時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを許されぬ。只眼にあまる情けと、息に漏るる嘆きとにより、昼は女の傍《かた》えを、夜は女の住居《すまい》の辺りを去らぬ誠によりて、我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す」クララはこの時池の向うに据えてある大理石の像を余念なく見ていた。「第二を祈念の時期と云う。男、女の前に伏して懇《ねんご》ろに我が恋|叶《かな》えたまえと願う」クララは顔を背《そむ》けて紅《くれない》の薔薇の花を唇につけて吹く。一弁《ひとひら》は飛んで波なき池の汀《みぎわ》に浮ぶ。一弁は梅鉢の形ちに組んで池を囲える石の欄干に中《あた》りて敷石の上に落ちた。「次に来るは応諾の時期である。誠ありと見抜く男の心を猶も確めん為め女、男に草々《くさぐさ》の課役をかける。剣の力、槍の力で遂ぐべき程の事柄であるは言うまでもない」クララは吾を透す大いなる眼を翻して第四はと問う。「第四の時期を Druerie と呼ぶ。武夫《もののふ》が君の前に額付《ぬかず》いて渝《かわ》らじと誓う如く男、女の膝下《しっか》に跪《ひざま》ずき手を合せて女の手の間に置く。女かたの如く愛の式を返して男に接吻する」クララ遠き代の人に語る如き声にて君が恋は何れの期ぞと問う。思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる。クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたりに抛《なげう》つ。花びらは雪と乱れて、ゆかしき香りの一群れが二人の足の下に散る。…… Druerie の時期はもう望めないわとウィリアムは六尺一寸の身を挙げてどさと寝返りを打つ。間《けん》にあまる壁を切りて、高く穿《うが》てる細き窓から薄暗き曙光《しょこ
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