をも命も、闇に捨てなば、身をも命も、闇に拾わば、嬉しかろうよ」と女の歌う声が百|尺《せき》の壁を洩《も》れて、蜘蛛《くも》の囲《い》の細き通い路より来《きた》る。歌はしばし絶えて弓擦る音の風誘う遠きより高く低く、ウィリアムの耳に限りなき清涼の気を吹く。その時暗き中に一点|白玉《はくぎょく》の光が点ぜらるる。見るうちに大きくなる。闇のひくか、光りの進むか、ウィリアムの眼の及ぶ限りは、四面|空蕩《くうとう》万里の層氷を建て連らねたる如く豁《ほがら》かになる。頭を蔽う天もなく、足を乗する地もなく冷瓏《れいろう》虚無の真中《まなか》に一人立つ。
「君は今いずくに居《お》わすぞ」と遙かに問うはかの女《おんな》の声である。
「無の中《うち》か、有の中か、玻璃《ハリ》瓶《びん》の中か」とウィリアムが蘇《よみ》がえれる人の様に答える。彼の眼はまだ盾を離れぬ。
女は歌い出す。「以太利亜《イタリア》の、以太利亜の海紫に夜明けたり」
「広い海がほのぼのとあけて、……橙色《だいだいいろ》の日が浪から出る」とウィリアムが云う。彼の眼は猶盾を見詰めている。彼の心には身も世も何もない。只盾がある。髪毛の末から、足
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