をとって来る。女「只懸命に盾の面《おもて》を見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾を抱《いだ》いて、池の縁に坐る。寥廓《りょうかく》なる天の下、蕭瑟《しょうしつ》なる林の裏《うち》、幽冷なる池の上に音と云う程の音は何《なん》にも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内輪が、例の如く環《めぐ》り出すと共に、昔しながらの微《かす》かな声が彼の耳を襲うのみである。「盾の中に何をか見る」と女は水の向より問う。「ありとある蛇の毛の動くは」とウィリアムが眼を放たずに答える。「物音は?」「鵞筆《がひつ》の紙を走る如くなり」
「迷いては、迷いてはしきりに動く心なり、音なき方に音をな聞きそ、音をな聞きそ」と女半ば歌うが如く、半ば語るが如く、岸を隔ててウィリアムに向けて手を波の如くふる。動く毛の次第にやみて、鳴る音も自《おのず》から絶ゆ。見入る盾の模様は霞《かす》むかと疑われて程なく盾の面に黒き幕かかる。見れども見えず、聞けども聞えず、常闇《とこやみ》の世に住む我を怪しみて「暗し、暗し」と云う。わが呼ぶ声のわれにすら聞かれぬ位|幽《かす》かなり。
「闇に烏を見ずと嘆かば、鳴かぬ声さえ聞かんと恋わめ、――身
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