す。投げ出《いだ》したる足の、長き裳《もすそ》に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦《す》る右の手が糸に沿うてゆるく揺《うご》く。頭《かしら》を纏《まと》う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然《たんぜん》たる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。
「岩の上なる我《われ》がまこと[#「まこと」に傍点]か、水の下なる影がまこと[#「まこと」に傍点]か」
 清く淋《さび》しい声である。風の度《わた》らぬ梢《こずえ》から黄な葉がはらはらと赤き衣にかかりて、池の面に落ちる。静かな影がちょと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然《ぼうぜん》として佇《たた》ずむ。
「まこと[#「まこと」に傍点]とは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムの方《かた》を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。
「恋に口惜《くや》しき命の占《うら》を、盾に問えかし、まぼろし[#「まぼろし」に傍点]の盾」
 ウィリアムは崖《がけ》を飛ぶ牡鹿《おじか》の如く、踵《くびす》をめぐらして、盾
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