動いているからその音も蛇の毛の数だけはある筈であるが――如何《いか》にも低い。前の世の耳語《ささや》きを奈落《ならく》の底から夢の間に伝える様に聞かれる。ウィリアムは茫然《ぼうぜん》としてこの微音を聞いている。戦《いくさ》も忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸を敲《たた》くものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうともしない。ことことと再び敲く。ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口の方《かた》に三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔《どうこう》に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急《せ》くか、厚い樫《かし》の扉を拳《こぶし》にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急に懐《ふところ》へかくす。敲く音は益|逼《せま》って絶間なく響く。開けぬかと云う声さえ聞える。
「戸を敲くは誰《た》ぞ」と鉄の栓張《しんばり》をからりと外す。切り岸の様な額の上に、赤黒
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